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河口慧海氏 『在家仏教』 に対する私的見解

河口慧海氏の『在家仏教』を通読してまず思うのが、慧海氏の「仏教を通じた世直し」に対する情熱が並々ならぬものであり、それが晩年に差しかかる出版当時(1924/大正13)なお、いささかも衰えていないという点である。それどころかチベットに単身乗り込んでいった若かりし頃よりも、知識経験がより一層積み上げられ、円熟の域に達しており、そんな仏教に人生を捧げた「人間・河口慧海」集大成が、この書籍に凝縮していると言っても過言ではない。

 

本書には、

  1. 河口慧海という日本仏教史において十本の指に入ると言っても過言ではない類稀なる人物
  2. 20世紀前半(戦前)当時近代仏教学及び旅行見聞の知識経験を総動員しながら
  3. 近現代人にとっての仏教のあり方を模索した果てに到達した結論

が盛り込まれており、同氏の『チベット旅行記』に勝るとも劣らない、非常に大きな歴史的価値を持っている。

特に、漢語に留まらず、パーリ語・サンスクリット語・チベット語を駆使して、縦横無尽史料批判をしていくその佇まいは、旧時代には見られないエポックメイキングなものであり、感動すら覚える。

 

では、その肝心の内容の方はどうか?

結論から言えば、「中途半端」「痛み分け」というのが、私の率直な感想だ。

慧海氏の日本仏教各宗派に対する批判は、的を得ており、現代においても十分通用する内容である。

しかし、それらに取って代わるべく慧海氏が提示する「在家仏教」は、2つの点で致命的な問題を抱えている。

それは、

  1. 阿含経典と(慧海氏が正統と認めた)大乗経典同列に扱っている
  2. 在家者の集まりを「僧伽」として扱っている

の2点だ。

 

『在家仏教』における慧海氏は、大乗原理主義に凝り固まり上座部仏教を小乗教と貶して釈興然氏と喧嘩別れしていた若かりし『チベット旅行記』の頃と比べると、知見が増えたこともあってか、上座部仏教に対する偏見もだいぶ和らぎ、大乗仏教と同等に扱う程度には考えを修正してきている。

折しも当時は、ちょうど『南伝大蔵経』の出版が始まった時期でもある。また『在家仏教』内でも言及されているように、学者たちによって当時「大乗非仏説」がそれなりに唱えられてもいた。さすがに氏も認めるところは認め、考えを修正するところは修正しなくてはならないと、思われたのだろう。

したがって、慧海氏の思想は、少なくとも『チベット旅行記』の頃の「前期・河口慧海」と、晩年の『在家仏教』の頃の「後期・河口慧海」に、分けることができる。(もちろんより細かく分けることも可能だろう。)

 

しかし、日本仏教僧侶宿痾(しゅくあ)とでも言うべきか、大乗仏教知識・経験・歴史に対する未練が邪魔をして、上座部仏教を一定程度評価したとしても、「上座部仏教に転向しよう(乗り換えよう/切り換えよう)」とまでは言えない、そこまでは踏み込めない、踏ん切りがつかない、そうした現代まで続く日本仏教僧侶の中途半端な体質が、慧海氏にも出てしまっている。

その結果、『在家仏教』の慧海氏は、「原理原則・原点回帰」を訴えつつ、日本各宗派批判していながら、慧海氏自身もそれを徹底できず (すなわち「(釈迦仏教)原理主義者」にまでなりきれず)、上記2点のように史実原理原則捻じ曲げてまで、「妥協折衷案」とでも言うべき「在家仏教」なる独自の構想を主張するという「愚の反復」を、自ら犯してしまっている。

 

結果として、慧海氏が批判する各伝統宗派も、慧海氏自身も、「どっちもどっち」「五十歩百歩」「どんぐりの背比べ」「似たもの同士」だという、喜劇のようなアイロニカルな読後感が残る。

「慧海氏の情熱やこれまでの努力が並々ならぬことはよく分かるが、なんとも中途半端なところに着地してしまって残念」というのが、偽らざる感想である。

 

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こうした皮肉な結末は、慧海氏個人限界なのか、日本伝統仏教(中国大乗仏教)限界なのか、はたまた仏教という枠組みそのものの限界なのかは、議論の余地があるだろう。

「原理原則派・原点回帰派」であるはずの慧海氏が、上座部仏教支持にまで転向することができなかったのは、慧海氏個人の大乗仏教に対する未練・こだわりも当然あるだろうが、それに加えて、釈興然氏の「釈尊正風会」の活動が現に振るわなかったように、戒律の縛りが厳しい上座部仏教(ないしは原始仏教)は、日本も含め近代国家との相性が良くないと考えたからでもあるだろう。

実際、慧海氏は本書の中で、国民皆兵の我国(大日本帝国)においては、「軍中過二宿学処」を守るのが困難だとか、貨幣経済が浸透している今日(近代)においては、「禁受蓄金銀学処」を守るのが困難であり、南方上座部仏教圏においても、これを厳密に守れている者はいないだとかと、指摘している。その結果、「出家僧伽」復興・再生断念し、「在家仏教」という話になるわけだ。

 

「目の前の社会環境適応しようとすると、原理原則崩れ原理原則を取り戻そうとすると、目の前の社会環境に適応できなくなる(滅びるしかなくなる)」、こうした問題は、一定程度の戒律原理原則を持った宗教ならば、どこでも見られる「板挟み」だ。

歴史的に見ても、インドにおいて大乗仏教密教といった「大衆化仏教」「世俗化仏教」が生まれた大きな原因の1つにも、また日本伝統仏教において、奈良、平安、鎌倉と戒律次第崩壊消滅していった背景にも、この「社会環境適応問題」がある。

多くの宗教はこのように、「原理原則を取るか、社会適応・改革による生き残りを取るか」二者択一を、常に突きつけられている。(その結果、中東のように、近代社会そのものを破壊してしまおうとする過激派・原理主義者まで、出てきたりする。)

 

そもそも仏教の場合、なぜ出家者具足戒のような過剰な縛りが可能だったかと言えば、古代インドを覆っていた、

  1. 「業を滅して輪廻から解脱する」ことが、人間(生物)究極目的である」という物語
  2. それに向けて修行する出家者(沙門)を、大衆尊敬して支援するという社会習慣

という2つの前提条件が、揃っていたからだ。

そのために、出家者(比丘・比丘尼)は、内面的にも、食事・物資の面でも、世俗社会雑事省みずに、具足戒を守って瞑想修行専念するという生き方が、可能だった。

 

逆に言えば、この2つの前提条件の、どちらか一方でも成り立たなくなると、元々の仏教のあり方は破綻してしまう。

その結果が、大乗仏教以降の仏教の変質・多様化だと言っていい。これらは全て、「生き残り」をかけた「環境適応」成れの果てだ。

南方上座部仏教圏のように、元々のそうした前提条件を、「社会ぐるみ・国家ぐるみ」引き継いでいる国・地域は、それでもまだ環境変化、しばらくは耐えられるだろうが、そうした前提条件を歴史的・社会的に共有してない日本などでは、それを大規模復興・維持していくのは、なかなか難しいと言わざるを得ない。

かつての「釈尊正風会」や、昨今のテーラワーダ仏教系組織のように、一部組織内細々と営まれていく他ないだろう。

(逆に、「葬式仏教」と揶揄され、形骸化が叫ばれて久しい日本の伝統仏教が、なんだかんだで強いのも、それが特に江戸時代以来、日本の社会システムの一端を担ってきたからだ。)

慧海氏は、「仏教を通じた世直し」を志向した人なので、そうした細々とした営みを良しとするわけがない。

彼が「上座部仏教路線」断念した背景には、こうした理由もあっただろう。

 

しかし、そうした背景・理由があったにしろ、比較的軽微な戒律である「軍中過二宿学処」「禁受蓄金銀学処」等の困難だけを以て、上座部仏教拒絶・否定するのは、論拠として弱過ぎるし、慧海氏の「原理原則・原点回帰」姿勢からすれば、潔く上座部仏教へと転向し、「軍中過二宿学処」「禁受蓄金銀学処」のような課題解決に取り組みつつも、基本姿勢としては上座部仏教普及尽力していく、とした方が、筋が通っていたし、説得力もあったと思う。

そこはやはり、慧海氏自身の個人的なこだわりというか、「今さら上座部仏教に鞍替えなどできるか」という思いがあったように思う。

良くも悪くも、歴史転換点に現れ、その狭間揉みくちゃにされながら、最後までとことん熱く生きた稀有な人物だった。(合掌)

 

ちなみに、そんな慧海氏が断念した上座部仏教は、21世紀以降の近年、「ヴィパッサナー瞑想」「マインドフルネス」を武器に、欧米や日本でもそれなりに流行っている。

これは一種の「仏教リバイバル」が起きていると言っても過言ではないし、「ヨガ」と並ぶ「インド発健康カルチャー」として、「ヴィパッサナー瞑想」「マインドフルネス」は、今後も欧米で粘り強く生き残り続けていくことが予想される。

しかし、それによって上座部仏教が安泰かと言えば、そういうわけではないだろう。

近年の欧米日本における「ヴィパッサナー瞑想」「マインドフルネス」ブームは、あくまでも仏教の宗教的な泥臭さ「脱臭」して、「上澄み」だけ活用しているに過ぎないものであって、上座部仏教そのものが受け入れられているわけではないからだ。

ましてや、上記したような「輪廻と解脱」物語や、出家者支援体制を、欧米日本に移植し、根付かせることなどは、相変わらずとても困難だと言っていいだろう。

仏教という営みは、他の多くの宗教と同じく、今もなお、「原理原則」「環境適応」狭間で、揺れ続けている。

 

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