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第95 - ウパーサカ仏教の開祖釈尊

世尊釈迦牟尼仏は成道して、仏と法とのみで僧の存在しない時に当って、初めに済度せられたものは二人のウパーサカで、一を黄爪(ツラプシャ, Trapusa)、二を賢者(バハードラ, Bhadra (Bahalika))と云う商人であった。

釈尊は彼等の二人に帰依二宝を授けて、未来成仏の授記をも与えられた。

次に鹿野苑において初転法輪の時、五人の比丘を度せられて名高い五比丘が出来たのであった。

 

次で阿戸婆河岸に住む在家の子息でその名を誉持(キルチ, Kilti)、無垢(Vimala, ヴィマラ)、成就(プルナ, Puruna)、牛主(ガウパチ, Gaupati)、賢手(バハドラパーニ, Bhadra-pāni)の五人は林中において、多くの芸妓と戯れていたが、芸妓等は酔狂の余り、裸体となって陰部を露出し醜状見るに勝(た)えなかった。

その狂態乱状を見て誉持(キルチ)は、墓地にあるが如き感に打たれた。

よって彼は大にこれを厭(いと)って、世尊の御前に行き礼拝して、世尊から四諦の法を聴いて阿羅漢の悟(さとり)を開いた。

これがウパーサカの初めである。彼の母及び妻はウパーシカとなった。

その後他の四人もまたキルチの名誉を知って、世尊の前に行って礼拝して法を聴いて、阿羅漢の悟りを開いた。

これが世間で名高い五ウパーサカである。(ヤーセル三二七丁)

 

以上は釈尊成道の後、二七日より二三ヶ月に至るまでの間に化度せられた最初のウパーサカ、ウパーシカである。

五比丘あるに対して五ウパーサカであり、未だ比丘尼なきにウパーシカを化度せられた如き、その当時より如何に在家の化度に重きを置かれたかは見るべきである。

 

その後、頻毘沙羅王、迦蘭陀長者、耆婆、給孤独長者、賢女、祇陀太子、波斯匿王、末利夫人、勝鬘夫人、友称王、維摩、宝積、文殊、弥勒等、無数のウパーサカ、ウパーシカを化度せられた。

最後にウパーサカ鍛冶工純陀(チュンダ)の供養を受け給うて、彼をして檀波羅密(だんはらみつ)を円成せしめて、遂に六度成就の菩薩とならしめた事は大涅槃経に誌(しる)された通りである。

 

そうして阿闍世王は菩提心を起して、菩薩となった。

ウパーサカ最後の所化(しょけ)となった者は、音楽の名手最喜であった。

彼は世尊の説法を聴いて入流果を証し、三帰と五戒とを受けてウパーサカとなった。(デルケ版 善逝法史七三丁)

 

大略上述の如く、釈尊は成仏せられてから、最後入涅槃に至るまで、多くの比丘、比丘尼を化度せられたことは勿論であるけれども、それ等よりもより多数のウパーサカ、ウパーシカを済度せられた事も事実である。

それ等多数の在家仏教徒が如来より直接に聴いた所の蔵経は、諸種の菩薩乗経、優婆塞戒、菩薩戒等である。

これを在家仏教徒の間で誠実に誦持(じゅじ)口伝(くでん)したものから後世の菩薩教大乗が発出したものである。

 

また釈尊が何(いず)れの説法会においても平等一様に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆の弟子に対して説法しておられる。

そうして比丘比丘尼の中には、大迦葉波や、舎利弗、蓮華比丘尼の如き大徳のいた事も事実であるが、ウパーサカ、ウパーシカの中には、文殊、維摩、末利、勝鬘の如き雄者のいたことも事実である。

そうして仁王護国、大涅槃経等の証説する所によれば、像法、末法の時代においては、正法を護持する者はウパーサカであるとせられたのである。

これ等によって現在将来の実行に最も相応するウパーサカ仏教の最初の開祖として、釈迦牟尼仏に帰敬する所以である。

 

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