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第94 - ウパーサカ仏教伝灯の縁由

ウパーサカ仏教は釈尊自ら説明せられて、優婆索迦、優婆斯迦を始(はじめ)として、諸(もろもろ)の大菩薩に授けられたものである。

しかし釈尊在世時代及び正法五百年の間は、比丘比丘尼衆が具足戒を実行し、正見の証悟を得て、世の福田となって居った時代であったから、別にウパーサカ仏教は社会の表面に現れて出る必要がなかった。

 

正法像法の区別については、種々の説があるけれども、賢劫経第七に正法存在五百歳、像法存在五百歳とあるに基(もとづ)いたものである。(縮蔵 黄四、四〇丁)

また仏臨涅槃記法住経には無上正法は仏滅後住世千年天人を饒益(にょうやく)す (縮蔵 辰一〇、二五丁) とあるけれども、実際は女子出家によって、五百歳を減じたから、正法住世は五百歳であると、この正法五百歳を過ぎて像法の時代になってから、比丘僧の正行衰微して像(かた)ばかりとなり、実行実証がなくなり、比丘としてその目的を達して阿羅漢となる者は一人もいなくなったのであった。

 

その時にウパーサカ仏教がその活動を開始して、多くの菩薩を出して正法を護持して、衆生を教化することとなったことは、先に大涅槃経の文を引いて証説した如くである。

像法時代に龍樹の師であったウパーサカ文殊大菩薩や、無著の師であったウパーサカ弥勒大菩薩は、世にあって彼等を導いたことは、西蔵顕部仏教伝灯史の証説するところである。

 

これによると、教師はウパーサカであって、弟子は比丘僧であった。

この時代に教師の中に多くのウパーサカのあったことは、華厳経入法界品の五十三の大善知識の中にも、多く見ることが出来るのである。

 

そうしてこれ等のウパーサカの大善知識は、比丘衆の法規戒律に縛られずして、在家の立場から仏教を見て、自由に碍(さわ)りなく、大に布衍して大方広大方等と名づけて、大乗経典の多くを著(あら)わしたものであった。

その布衍経は初めは多く在家菩薩によってなされたものが、後には出家もまたその菩薩乗を讃歎して、大乗無上乗と説明して多くの経典論蔵が彼等の如来蔵より発出したものであった。

これが抑(そもそ)も菩薩に出家の菩薩が生ずることとなった所以である。

 

そうして出家仏教比丘仏教が菩薩教化せられて、彼等は遂に出家の本分たる四諦の観法、八正道の修行を取らずして、ウパーサカ菩薩道である六波羅蜜、十波羅蜜などを修むることを主張することとなった。

そうしてそれを以て大乗と云い、菩薩乗と云った。

そうしてそれに対して出家仏教を小乗と卑(いや)しめたものであった。これは全くの誤謬であることは既に弁じた如くである。

かくしてウパーサカ菩薩乗が出家仏教に占有せられたので、末法時代において当然起るべきウパーサカ仏教が起らなかった所以である。

 

印度において文殊等の大菩薩によって、実現せられたウパーサカ仏教は支那においては多少の居士は現われたけれども、適当なるウパーサカ教徒は出でずして日本において有力なる実現者聖徳太子が生れたのであった。

我国仏教の開基始祖とも云うべき聖徳太子がウパーサカであらせられた事は毫も異論のない事実である。

然るに太子の後を受けた者等はみな大抵比丘僧であったから、別に印度において後世混同した出家在家の別にも疑念を挟む所なく、却ってこれを善事として、印度には嘗(かつ)てなかった出家に、菩薩戒即ち在家の戒を授けるという奇劇さえ、天下の大道場に起った所以である。

 

なお時の経るに随(したが)い全く無戒の教、即ち僧の戒律もなければウパーサカの戒法もない真宗の如きものさえ生じた。

またただ語言文句の題目に戒壇などという現実的実体の名を与えたる外に、授戒も持戒もない日蓮宗派の如きも起った。

両宗教徒は無戒無律なるに拘(かか)わらず、僧服を纏(まと)い袈裟を着け寺院に住して堂々たる生活をなす所の多数を包含する大団体である。

或人は、真宗や日蓮宗を以て、ウパーサカ仏教と云うけれども、これは全く誤謬であることは已(すで)に弁じた如くである。

 

実際彼等は円頂方袍で比丘僧の外相を飾って生活する者である。

故に儀式の外形より見れば、全くウパーサカではない、比丘僧である。

併(しか)しその実行から見れば、ウパーサカ否(い)な俗人よりも劣った無戒無律無慚愧極まる生活である。

されば仏教の実行門より見れば、彼等は比丘僧でもなく、ウパーサカでもない。ただ仏教の名を濫用する一種の団体である。

 

その他の宗派の如きも実行門より見れば比丘僧は勿論ウパーサカもない。

比丘僧のないことは彼等の中にて、具足戒を持つ者がないからなどの理由は既説の如くである。

またウパーサカでもないことは、彼等の中にてかりに五戒を持つ者があったとしても、それを以て彼等をウパーサカであると云うことは出来ない。

彼等の身分は既に比丘僧の中に属しているからである。

 

されば聖徳太子以来、仏教が盛大のようであったけれども、実行門の上においてはその力微にして、社会の真実感化には甚(はなは)だ振(ふる)わなかった所以である。

上述の如き状態であったから当然起るべきウパーサカ仏教が起らないで、ただ旧習を固守して今日に至ったものである。

されば我国においてウパーサカ仏教の宗祖とすべきは、聖徳太子の外にないのである。

故にウパーサカ仏教の伝灯は以下の如くである。

 

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