目次

第93 - ウパーサカ仏教の本尊

仏教に説く所の本尊は、固(もと)より俗諦(差別)、真諦(平等)の二門を超絶融会(ゆうかい)している。

唯一無二の本尊として、生本不二、法応一体の仏陀を、歴史的唯一なる存在の釈迦牟尼如来に見るのである。

 

けれどもこれを普通一般人が俗諦差別の上より見る本尊は、色心不一の現象的差別に随(したが)って客観的歴史的仏陀をのみ見るのである。

これに反して唯心建立の真諦無差別門より見る者は、客観的存在を否定して自己内心本性の本尊を見ている。禅宗の修行者が客観的に本尊を求むる者を卑(いや)しめて、人々個々本来円成(えんじょう)の仏陀を本尊として高調している。

この二種の本尊は何(いず)れも偏った本尊である。

 

仏教の真実本尊は、真俗二諦を超絶しながら、差別平等を本具する本尊、いわゆる相対絶対を本来融合する実相、即ち個人にして一心法界の性徳相用を円成(えんじょう)する本尊、即ち法身性具の無量無辺なる万徳を一身に現わし給うた本尊を、歴史的唯一存在の釈迦牟尼仏に見るのである。

これは事実の本尊そのものに、理想の本具存在を証見するのであって、理想である法身を本尊として、事実である応身を客とするのではない。

理想的法身は尊いようでも本覚の仏であるのだから、吾人帰依の本尊となる因位のものである。

その因徳を精錬修行して成就した果徳始覚の仏ではないから、吾人の究竟して帰信する本尊とすることは出来ないのである。

 

この点において真言宗の本尊は法身仏であるから、吾人人類が実際に本尊とするには不適当である。

それかあらぬか、現今の真言宗では事実において僧侶も信徒も大抵みな弘法大師を本尊として、法身仏毘盧遮那如来を忘れているかのようである。また弘法大師本尊を宗是としているかのようにも見える。

もしこれが実現するとなれば一僧を以て本尊とするのであるからなおさら仏教の本尊とするに不適当である。

 

もし真言宗にして本来の宗義の如く法身仏を本尊としつつ、法身説法を主張するが如きは、因位本覚の仏陀が、直ちに果位で説法する不合理を侵すこととなる。

勿論これには秘密不可思議の如来智において、常識にて謀(はか)り知る事の出来ぬことも行われるのであるから、吾人の常識を以て批判してはならぬと、恰(あたか)も耶蘇教の神万能不可思議説に似た事を説くけれども、これは一種の神秘妄想に過ぎないのである。

 

法身説法などということは、山河大地草木国土を以て法身とし鳥声水音を説法と聞く一個修行者の主観的境地の形容詞に過ぎないのである。

さればこの法身説法は客観的事実の存在を不可能として、加持身説法としたのが新義真言の主張であるけれども、これまた応身説法の形式を理想化して、加持身説法と説明したまでである。

事実は歴史的応身仏陀の外になかったのである。

 

なお進んで応身の釈迦牟尼仏が、法身大日如来と現われて説法せられたのであるとするのが、天台密教の所説である。

けれどもこれとても真の事実は歴史的仏陀の説法を、高尚にせんとする欲望の下に一種の形容を加えた迄(まで)である。

本来仏教がこの世界に実在するようになったのは、歴史的には釈尊出世成道以後の事である。

 

その以前にも自性の仏法は固(もと)より存在していたのであったけれど、説法という事実に依て成立した仏教の起ったのは、釈尊が鹿野苑において初転法輪せられてよりこのかたの事である。

その歴史的釈尊の説法を抽象化し理想化して、法身説法とか、加持身説法とか、応身現法身説法とか、いろいろの名を付したまでで事実は釈尊の歴史的説法に外ならないのである。

故にこれ等の理想的説明の本源である歴史的釈尊に帰(き)して、初めて真の説法主である真の本尊を発見することが出来るのである。

 

これ仏教の本尊は法身性徳具現の歴史的仏陀釈迦牟尼如来であると云う所以である。

そうして現代及び将来に唯一の実際宗教たるべきウパーサカ仏教の本尊は、この純全仏教の本尊である釈迦牟尼如来であることは、申すまでもないことである。

 

目次 inserted by FC2 system