目次

第92 - 理想的本尊の欠陥

ウパーサカ仏教の法宝についての説明は、既に第三部において、述べた如くであるから、ここに再び説く必要がない。

けれどもウパーサカ仏教の

疑を起す者があるであろう。

今よりそれ等の説明をすることとする。

 

第一、本尊については以下の疑問を起す人がある。

それは本尊は地上の人であってはならぬ。理想上のものでなければならぬ。

基督教徒の如きまた浄土門の如き、また或宗教学者の如きは、そのような主義に確定して居る。

また仏教中にも応身(おうじん)仏を小劣として、法身(ほっしん)仏を優勝とするが如きは真言日蓮の宗派を始(はじめ)として、各派の学者中にもある。

されば本尊は理想的でなければならぬかを研究闡明(せんめい)する必要があるから、これよりその問題に入ることとする。

 

凡(およ)そ地上に生じた実際の人物には、必ず欠点が伴うものであるから、本尊は理想的のものでなくてはならぬと主張することが根拠となって、基督教神学者の一神説や宗派仏教の法身尊重説などが出るのである。

然るに基督教の一神は神話的に実在の神であって、また実際一般教徒の信仰は理想の神でなくて具象的の神、歴史的最初の神、造物主でエホバと云われる神である。

かの神は愛の神であり、怒りの神であり、嫉妬の神である。モーゼに現われて談話を交えた神である。

全く具体的に一個(いっこ)人格を具(そな)えた神と信ぜられている。

 

勿論神学者や哲学者は、神を本体的存在とし、或は人格的完全なる理想的存在としている。

併(しかし)ながらかくの如きは、僅少なる思想家の心に映じた神であって、基督教徒一般の信仰する神は具体的一個の人格あって、愛増心を有する神である。

 

然るにこれは宗教上完全なる本尊と云うことは出来ぬ。

何故ならば愛憎心ある者は、一視平等の大慈悲心に住することが出来ないからである。

また愛憎心ある者は正しい理性の作用を欠いているものである。

故に一般人間の本尊とすることは出来ぬ。

 

但しここに特に注意すべきことは、一般に広く信じ得られる者は必ず具体的であり、また歴史的であり、或は神話的のものである。

哲学者の信ずる純粋理想的のものは、一般人の信仰の的とはならぬ。

また【他方で】一般に広く人に信ぜられるからとて必ずしも正しいものと云うことは出来ぬので、小数の人々でも真の智者であれば、その見る所は必ず正しい云える。

然らば哲学者や、神学者の見る所の本体や、理想的存在を本尊とすることは正しいものなのかという、この思想に対して批判せねば何(いず)れとも決定は出来ぬ。

 

総べて本体とか、理想的存在とかいうものは、吾人の心中にて抽象の上作り上げた一種の概念である。

或はこれを概念とせずして、直覚の観念とする者がある。また信心の感得であると云う者がある。

併(しか)しながら、これはその観念なり、感得なりを獲得するに至るまでの心の努力を、暗々裡に為していた事を忘れたものの言い分である。

抽象的努力によって一種の概念を作るべきものを、ただ禅定家が直観の努力によって一観念として悟ったものであり、また信心の努力によって感得したままである。

その何(いず)れもが心内の作出現象であって、自己心にその存在を自信自証する心作用の外に客観的には存在せないものであることは言うを待たない。

 

そうして客観的には無存在であって、抽象的概念或は観念であるものに対して吾人人類の宗教的意識を満足さすことは出来ない。

ただそれで満足する者は、純理を喜ぶ哲学者か、禅定家の唯心禅観を楽しむ者か、偏信的な神学者信徒の外に出でない。

それは何(いず)れとしてもただ形以上純理のみであって、客観的事実の存在しないものは、宗教の本尊としては不適当である。

 

目次 inserted by FC2 system