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第91 - 偽経の危険思想

大集経中に編入せられた多くの経典は、みな仏滅後数百年以後に、大布衍せられたものか、或は全然偽作せられたものである。

 

現に西蔵一切蔵経秘密部の無上瑜伽部の総べての経典は、悉(ことごと)くみな偽作であって、その主として極秘裡に教説する所は、比丘僧の即身成仏の頓速無上最勝法として、飲酒肉食性交等の肉欲実行を以て、必修の行法として実修せしめる。

かくの如く仏陀清浄の聖旨と正反の事を以て、最も巧妙に深遠なる理解三摩地を応用して極秘深密として、伝授する経説細釈数千巻の多きに達しているけれども、みな偽経である。

 

そうして大集経の無戒名字の比丘を以て末世の至上宝として、尊重せよ、供養せよという魔説と同工異曲(どうこういきょく)の偽作である。

かかる偽作の経典を以て権証として、罪悪の実行に正当の道理を付したる末法灯明記は、末法灯明記でなくて、末法闇黒(あんこく)記である。

道徳向上の進路を障害する悪魔の宣伝である。

故に余はこの書を以て伝教大師の真著とするに躊躇するものである。

 

以上論明した所によって、末法灯明記の説は取るに足らない、また全く根拠のない妄説である事が、明かになったと思う。

かくの如き妄説魔論が如何に後世の比丘僧をして堕落せしめ、また一般人民をして腐敗せしめた根本的危険毒悪の思想であったかを見るべきである。

 

後に鎌倉時代に至って、仏教の基礎的大原理である自業自得の因果律を無視した、無発菩提心即ち無原因即ち無条件で極楽往生して、救済せられるなどと無因有果邪説、絶対他力阿弥陀の本願で救われるなどと云う他作自受の悪説、因果撥無(はつむ)の邪見を主張して、身は僧でもなく俗でもない鵺(ぬえ)の如き一団を現出した親鸞も出た。

また大飲豪酒して如来の戒律などは眼中になかった日蓮も出た。

彼等は末法灯明記、否(い)な末法闇黒記実現の祖師として現われたのであった。

 

如何に末法灯明記が我国民の道徳的生命の進歩を阻害したかは、一考するだに戦慄すべきである。

現に我国の僧侶は総べてみな比丘僧でない全く虚偽生活であるに拘(かか)わらず、恬然(てんぜん)として恥ずる所なく身は堂々たる寺院生活をなし、仏物法資を平気で徒食冗費(としょくじょうひ)することを得るは、暗々裡に或は公然として権証を末法灯明記に置いているからである。

実にこの毒説魔論は露国猶太政府の赤化宣伝よりも徹底的に大害毒を流したものである。

 

かくの如く我国に一人の比丘僧なしとすれば、正法は全く滅びて仏あれどもなきが如し。

さればこの比丘仏教の点より見れば、ただ虚偽欺騙(ぎへん)あるのみであって仏も法も僧もないのである。

 

然るに大涅槃経梵行品第八の四の正文によれば、かの末法灯明記に引用したる末法の中において、「十二万の大菩薩あり、法を持って滅せずとある」この語の出でたる所であって、その文に以下の如く出ている。

その時に凡夫は相共(あいとも)に説いて云った。
哀しいことです。最早(もはや)仏法は滅びてなくなりました。

併(しか)しながら我正法は滅びないのである。
その時その国には十二万の諸大菩薩があって、善く我法を持っている。
どうして我法が滅びたと云えようか。
併(しか)しその時に当って、閻浮提(えんぶだい)の中には、一人も比丘として我弟子である者はないのである。(縮蔵 盈五、九二丁)

 この文によると、この世界に一人として比丘僧がなくなった時代に当って正法が存在する事は、ただウパーサカである菩薩僧が、善く正法を持つによるのであることが明確にわかる。

 

そうすると現代全く比丘僧のない時代に当って正法を持つことが出来るのは、ウパーサカ仏教におけるウパーサカ菩薩僧のみであることは明白である。

されば現代及び将来に最も適当した宗教はウパーサカ仏教のみであることも自ら明かである。

然らばそのウパーサカ仏教とは、どのようなものであるか。

 

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