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第89 - 末法灯明記の自家撞着

上述の論明に対して或論者は云うであろう。

君は僧最澄の著(あら)わした末法灯明記を見ないから、そんな事を云うのである。

その書には大集経の仏言を引いて、末法には無戒の僧のみである。その無戒の僧が末法時代の無上宝であるから、尊重せよとの仏勅である。

現代は末法時代に入て約一千年を経ている。比丘僧のないことは当然である。名ばかりの僧でもあれば結構であるから、尊重せよ、供養せよ。

既に伝教大師はこの仏言を引いて宣揚せられている。

どうしてこの仏言祖語に反することが出来ようかと。

 

元来論者は末法灯明記を以て、無批判に最澄の著としているようであるけれども、古来この書に対しては頗(すこぶ)る異論があって、最澄の著であることの史的確証もなければ、また全然彼の著述と決定したわけでもない。

然し鎌倉時代の親鸞及び日蓮は、やはり批判なしにこの書を最澄の著として引用している所を見て、実に最澄の著であったのだと主張する者がある。

 

余の考うる所では、伝教大師は甚(はなは)だ頭脳明晰な方であって、その著書は論理的組織が整然と成立しているのである。

然るに末法灯明記に限って、曖昧模糊として自家撞着を犯している。

この点から見ると、伝教大師の著ではないと思われる。

かりに後世この書が大師の著であることの史的証明が出たとしても、それは必ずや大師が病気のためか、何かの理由で神経衰弱に陥って居られた時の作であることが断言できる。

今その次第を述べよう。

 

末法灯明記著述の目的は、末法時代には正法もなければ戒律もない。故に僧として戒を破ることもない。みな無戒の僧のみである。その無戒の僧は末法時代の無上宝であるから尊重すべきである、供養すべきである。決して在家の者等が無戒の比丘僧を罵ってはならぬとて、大集経の説を引いて主張し、以て無慚無愧の比丘僧を弁護するにある。

然るに本書において第一正法もなければ正法の利益もないと主張するには拘(かか)わらず、この書に涅槃経の文を引いて「末法の中において十二万の大菩薩あって法を持て滅びず」と誌(しる)している。そうしてその下にこれは上位によるが故にまた用いないと曖昧な言訳(いいわけ)を記している。

元来涅槃経の文は、大菩薩は固(もと)より上位にいて末法の衆生を憐れむが故に、下位の衆生を接して済度せられる事を明瞭にするために記した文である。真の正法が末法時代に菩薩によって顕れる事を誌(しる)した文である。

この著名な文を引用しても、自己の主張と正反する文句であるから、上位によるから用いないなどと曖昧なる言訳を付して、一時を糊塗せんとしたる如きは、全く論理的統一を欠いているものである。

 

また第二にこの書は如是我聞一時仏在とあれば、何でも有り難い仏説と信ずる西蔵流の多数刺嘛(ラーマ)等の如くに、何の批判も分別せずに、偽作竄入(ざんにゅう)の甚(はなは)だ多い大集経の文を引用している。

破戒無慚否(い)な無戒無愧の迷比丘僧等を尊重供養せよなどという魔説を広く引用している。

そしてこれ等引用文の間において、全くその主意を破壊する文を以下の如く挙げて、大なる自家撞着を示している。

 

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