発菩提心は、前述教理の観察から自他衆生の実相を観て、報恩心と慈悲心とを起す。
この心が基礎となって断然として一切衆生をして、無上菩提を成ぜしめたい。その為には不惜身命以て菩薩行即ち十波羅密行を行うという大決心をすることが発菩提心と云うのである。
菩提心を起すことが仏子即ち菩薩となる尊い心である。
この利他を主とする発心に依て在家の身分で余りに微細の戒律に縛られない所から、自由自在に利他行を修めることが出来るのである。
されば在家としては欠けて居る所の出家清浄行を補うに足るだけの尊い心である。
勿論比丘として起す道心は発菩提心と同じであるけれども、出家として持たねばならぬ二百五十の戒律三千威儀のために在家の如く利他行に専らなることが出来ぬ。
故に発起心の利益を及ぼす範囲が狭いだけ、利他を主とする菩薩行の如くその効力が広大でないことである。
但し釈尊出家時の発道心は、前説明の如く、菩薩の発菩提心と同一である。
後世比丘の発道心が自己の解脱を主とするようになったので、菩薩の発菩提心が利他の点において特長のあるようになったのである。
次に行う所は十波羅密行である。
波羅密多(パーラミタ)は梵語であって、訳は彼岸に到達したという義で、事の円満成就を意味するものである。
十波羅密多行とは
の十度行で、一々円満に精錬成熟せられた行為を云うのである。
これを修行する菩薩に十地(じゅうじ)の階段がある。
後世この十地の階段を広別して、
と、五十一位に別(わか)ったけれども、最初に菩薩の修行を別(わ)けたものは、十地のみであって等覚はなかった。
後に華厳経等が現われるに及んで、五十一位と広別したものである。
その十地の菩薩行は何を修むるかと云うに、各地に十波羅密の一つ宛(ずつ)を修めることは以下の如くである。
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