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第64 - 出家修行法の綱領

出家の修行法は、完全に家庭、即ち父母妻子眷属の関係から離れて、寺院(家族関係のない寂静処)、或は巌窟、或は山林中に住んで、比丘即ち請徳士として二百五十の具足戒を完全に護持し、三千の威儀を完(まっと)うして、禅定に入って四諦或は十二因縁の真理を観想して、遂に不生の覚悟を開き阿羅漢となる法を云うのである。

そうしてこの法の順序を云えば、

である。

 

第一、発起道心とは、まず出家的修行を始めるに当って、初めに出家する道心を起さねばならぬ。

その道心というのは道を求むる心であって、何故に道を求めるかと云えば、世の実状を見るに、老少不定無常迅速の上に、老衰病悩の苦痛あり。盛(じょう)なる者は衰え会う者は別れることを免れない。

一切が常なく苦痛であると知った時、これ等一切の苦患(くげん)から完全に脱(のが)れたいという願望が生ずる。

その願望を成就するがために、一切の家族的関係を断絶して、剃髪染衣以て比丘僧となろうという決心をする。

これを道心を発起すと云うのである。

 

この発起道心において釈尊が出家せられた時の如く、四種の願心、即ち

ならば、発起道心として完全である。

 

この発起道心は菩薩の発起道心と同一である。

然るに後世に至ると、この如来出家の道心即ち願念を忘れ果てて、ただの自己の解脱をのみ求むる者が多くなって、仏の本意を失ったのである。

そこでそれ等の者は外道なり小乗なりと云われて、蔑視せられるようになったのである。

 

それが仏滅後僅(わずか)に四十年を経た時ですら、比丘僧が利己を計る心の強烈になったことを実見した阿難尊者は大に驚かれて、遂に速(すみやか)に入滅せられることとなった程である。

それは仏滅四十年後阿難尊者の御年(おんとし)八十五歳の時の事で、尊者は王舎城竹林精舎に居られた。

或時一の比丘が以下の如き邪見の経偈を暗誦しているのを聴かれた。

阿難尊者はそれを止めて云われた。お前の唱えたものは世尊の説かれなかったものであると。

この尊者の訓言に対して、かの比丘は強弁して云った。貴老は老体の故に記憶が衰え、理解力も老耄(ろうもう)して害を受けられたと。

そこで尊者は偈を以て答えられたけれども、彼は改めなかった。

それから世を厭って入滅しようとせられた。(ヤーセル、三七四丁)

 

仏滅後四十年を経た時ですら、仏説を利己的に解釈する者が強勢であったことは、前述の如くであったのであるから、仏滅後三百余年を経て迦膩色迦(カニシカ)王が、大乗を結集せられた頃は、仏の真説阿含部を非常に狭小偏浅に解釈して、救うべからざるようになっていた。

そこでその時代の出家者流は、仏出家の発起道心を忘れて、その道心は自己の利益を主とするようになっていたものである。

それ故に大布衍部の作経家が盛んに出で、彼等利己一片の誤解者を小乗と貶して、遂にその経にまで小乗と名を付するに至ったことは、既に説明した通りである。

 

されば声聞出家の道心が利己一片のものとなり、小乗と云われることとなったのは後世のことであって、本来仏在世の頃には出家の発起道心が菩薩の発菩提心と同一であったことは普曜経の説が説明している。

或大乗家が強説する如く、声聞乗出家の道心は、利己心一片のものだと云う訳にはいかぬ。

利他のためにも発起する道心は、やはりかの菩薩が菩提心を起すのと同一である。

またその求道の決心においても、何(いず)れも優劣はないのである。

 

ただ出家の方は断然家族との関係を断って、専門的に修行する決心をする点が違うのみである。

 

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