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第62 - 出家の結集と在家の結集

支那所伝の歴史によると、仏滅後上座部五百人の阿羅漢によって結集せられた経律論の三蔵と、その外部に大衆部の学無学の大衆によって結集せられた経、律、論、雑、密咒(じゅ)の五蔵は出家比丘等の結集であるから、出家解脱法のみを典書であるように思う者もあるけれども、これはただ想像に過ぎないのであって、その証には上座部の結集においても、在家菩薩の修行を誌した本生伝の経典あり、またウパーサカの戒律もある。

況(いわ)んや大衆部の結集においては、ウパーサカ菩薩の修める三蔵が混入した雑蔵密蔵があるにおいてをやと云わねばならぬ。

 

併(しか)しながらこれ等の三蔵五蔵は、主として出家解脱法のものであることは云うまでもない。

この外に西蔵所伝によれば、在家菩薩が主となって結集せられたところの、在家の修行部三蔵がある。

その結集の事歴は以下の如くである。

 

秘密不可思議経、及び金剛手灌頂秘経に説かれたる如く、結集については一般に金剛手菩薩が、千仏の勅命を結集したものとしておる。

併(しか)し如来が在住せられた新王舎城の南方毘摩羅莎発斡祇利(ヴィマラ スワバハーヴァ ギリ) (Viimara-Svabhava-giri 訳 無垢自性山である。現今新王舎城の南方に二山並列して東峯を毘摩羅祇利(ヴィマラギリ)と云い、西峯を唄婆縷祇利(ヴァイバルギリ)と云う。そのヴィマラギリの山頂に、大なる仏教卒堵婆(そとば)の跡がある。古昔(こせき)ヴィマラ山のことをヴィマラ スヴァバハーヴァと云ったが、後世スヴァバハーヴァが略せられたのであろう。この山頂の卒堵婆の前には広大なる平地がある。結集には実に適当の場処である) に百万の菩薩即ちウパーサカが来集して、文珠師利(マンジュシリー)菩薩は論蔵を、弥勒(マイトレヤ)菩薩は律蔵を、普賢(サマンタ・バハードラ)菩薩は経蔵を結集した。

これが大乗即ち菩薩乗の三蔵である。

このように大乗仏典は仏子菩薩により結集せられ、声聞乗は声聞の弟子によって結集せられたのであった。(ヤーセル、三七八丁及びパクサムジョンサン四七頁)

 

これは(西蔵において)普通に伝えられて居る所であるが、ゲーツブ・ゼー、訳学成就聖は、その著述である集秘経の初において、大乗仏典は金剛薩埵(こんごうさった)の結集したものであると云うに対して、異なる意見を述べておる。

またトクゲヴァルワ訳慧解燃(えげねん)という書には、大乗即ち菩薩乗仏典は、固(もと)より仏陀の説かれたものであるけれども、それが根本の要を集めた者は、普賢と文珠師利と秘密主と弥勒とであったと書いてある。

また大般若註釈にも、金剛手菩薩は千仏の勅命を結集するものであると云って、秘密不可思議経と同説を採って居る。

また金剛手灌頂(こんごうしゅかんじょう)経には金剛手菩薩は結集者誦出者として、「このように私が聞きました。」などと、弥勒菩薩などに対して述べて結集したものであると誌してある。

畢竟(ひっきょう)このような相違は、普通仏典の結集と、特殊仏典の結集との別々にせられた結果であるから、事実においては一致しない訳ではない。(如意宝樹史四七頁)

 

以上西蔵伝によれば大部分の菩薩乗の三蔵は、在家多数の優婆塞が毘摩羅山頂に集って、文珠(新訳に曼珠または曼殊とも云う)、普賢、弥勒の三大菩薩が主となって結集した事と、それに漏れたる特殊の経典は、他の異なる菩薩等に依て結集せられたこととなっている。

何(いず)れにしても出家の弟子衆が、仏説を結集して三蔵として、口から口へと伝えた様に、優婆塞菩薩衆が如来在世入定の遺跡である、ヴィマラ山頂に集って、仏説を結集してこれを子々孫々或は弟子から弟子へと伝えていた事は、仏滅後次第に菩薩乗の台頭しつつあった事実に徴(ちょう)しても明かである。

ましてそれ等の事実のあったことは、経律論の伝称せられ、大方広大布衍せられた事実のあるにおいては、疑うべき余地はないのである。

 

また仏在世の当時如来の直弟子たる大声聞の阿羅漢等と同等の悟道を有し、その徳行においては優るとも劣らざる程の文殊や、普賢や、弥勒や、宝積や、維摩などの大菩薩衆が、実在して居られたのであるから、彼等が聴いた仏説を結集したのは当然のことである。

 

支那所伝にも大乗結集については、菩薩処胎経に仏滅後七日、大迦葉は五百阿羅漢を招集し彼をして十方仏世界の諸(もろもろ)の阿羅漢を閻浮提沙羅双樹の間に詣(まい)らしめ、八億四千の阿羅漢衆を得、阿難をしてまず菩薩蔵、声聞蔵、戒律蔵の三部を分類し、その菩薩蔵中内分、八蔵を結集せしめたことを誌してある。

然るに仏滅後七日は大迦葉が漸(ようや)く沙羅双樹について、それより如来の全棺を荼毘に付する時であって、引続いて仏舎利の分骨等で、なかなか忙しい時であった。

それであるから大迦葉は沙羅双樹間に居った当時は、結集するなどの時は得なかった。

結集は王舎城に移てから後のことであるから、この菩薩処胎経の説は用いることが出来ぬ。

 

また大智度論に大乗の結集は、文珠弥勒等の大菩薩は阿難を得て、鉄円山において大乗の三蔵を結集して菩薩蔵としたと誌している。

これは余りに神話的であるから用いられないのである。

それ故に事実に西蔵伝を用いたのである。

 

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