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第55 - 向上的方法

第三、法は宇宙空間に行われる理法に依拠して、凡夫が仏陀となる向上的方法を表示している。

この第三の法の意義は、仏教の主要義であって、前に述べた法の二義は、この法を説明するための予備門である。

 

併(しか)し二義ともに法の重要なる意義であって、この二義なしには仏の向上法は成立しないのであるから、向上法の依拠であり基礎であるとも云うべきである。

この確実正等なる法の二義に依て、無上完全真正の向上法が説かれるのである。

 

この向上法は仏智と仏行に依て、構成せられたものである。

仏智は無辺無限の絶対法界における実相を悟ったことから現われる。

仏行は一切衆生がこの実相を如実に知らないことから、徒(いたず)らに迷って苦しんで居るのを見て、仏陀は憐愍(れんびん)に思われ、これ等の衆生を根本的に、その無知の苦悩から脱(の)がれしめ、以て無上不変の幸福を受けしめたいと願う意から起るのである。

いわゆる発菩提心が根本となって、仏行も起り仏果も得られるのである。

 

仏陀は如実に法界を一心と知られ、その一心法界中の一切衆生は、皆仏陀の一心法界中のものであるから、一切衆生は皆これ我子であると知られた。

その子供等をして皆平等に常寂光浄土に住ましめ、永久常楽の境界に在らしめたいとの大慈悲心から、その境遇に達する方法を示されたのが、この第三義の法である。

 

さればこの法の行われる根拠は仏の意志力即ち発菩提心が根拠となっておることは明白である。

併(しか)し仏教の因果必然律を信ずる人は、どうして因果網中普通人が因果を破って、突然菩提心を発(ほっ)し得るかという疑(ぎ)が起るであろう。

何故ならば因果の法則は原因に相応する結果であって、突然の変化は許さないから、凡夫としての因果をもつものが、聖人となるべき菩提心を発すということは、因果必然相応の原理に背くからである。

 

元来発菩提心義の前提として自由意志論を肯定しておる。

然るに因果必然律は自由意志論とは正反対であって、何(いず)れか一方が立てば必ず一方が倒れるものである。

これは古来泰西(たいせい)の哲学者間にもこの二つの論争が絶えなかったので、今なお何(いず)れとも決定しないで、論争は続けられておるのである。

 

然るに仏教は因果律を徹底的に用い、また自由意志論を修行の根本なる発菩提心において用いている。

かくの如き氷炭(ひょうたん)相容れざる論が同一仏教中にあることは、仏教それ自体が撞着(どうちゃく)をもっておるのではないかと疑う者がある。

この疑問を氷解するには、仏教所説の因果必然説と自由意志論との関係を闡明(せんめい)せねばならぬ。

 

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