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第50 - 因果相応の原理

善業悪業無記業の因果の応報

ここに善と云うは、その業が正理に順(したが)って行い、その結果として楽を受けるものである。

悪とは正理に逆(さから)って行い、その結果として苦を受けるものを云うのである。

無記とは善とも悪ともつかない行為であって、その結果は楽でも苦でもないものを云うのである。

 

善業の例を云えば、罪なき人が殺されんとするのを見て、憐愍(れんびん)の心を起してその人を救って、以て自ら大に満足した幸福を感ずるようなものである。
それのみでなく、自己に長命の結果を齎(もた)らすこととなるのであるとは仏説である。

悪業の例を云えば、正理に反して他人の財産を窃取(せっしゅ)するか、或は強奪すれば、早晩入牢の苦痛を受けるが如きものである。
現生か或は後生に必ず貧困の苦痛を受けることとなるのである。

無記業の例は人が歩行したり止ったりする業の如きで、結果として動静することはあってもそれが善悪とも苦楽とも云うほどのこともないような類を云うのである。

 

吾人が何か行えば、この三種の中の何かを行っているのである。

それ故に注意しないと、苦患(くげん)の種となる悪を多く行うこととなるのである。

 

この善悪について仏陀は、十善十悪と明かに区別して居る。

その目は以下の如くである。

十善   十悪
不殺生 有情の生物を殺さざること 殺生
不偸盗 他の財物を盗まざること 偸盗
不邪淫 他に保護される女、或は他人の妻を犯さざること 邪淫
不妄語 虚言を言わざること 妄語
不両舌 両者の間に不和を構成する如き反間(はんかん)語を言わぬこと 両舌
不悪口 罵詈誹謗をせざること 悪口
不綺語 淫猥汚涜(いんわいおとく)の語や詭弁を弄(ろう)せざること 綺語
不貪欲 色欲財欲名利欲等について貪(むさぼ)る心を起さぬこと 貪欲
不瞋恚 忿(いか)らざること 瞋恚
不邪見 因果の正しい道理に背いて考えざること 邪見

 前表の下段の十悪は上記の十善に正反した事を行う事で、邪見の如きは、常に因果の原理に反した事を思う者である。

 

十善は十善戒とも十善業道とも云って、優婆塞菩薩戒である。

菩薩の如く無垢清浄心で行えば、その人即ち菩薩であって、解脱を得る基礎となる戒体(かいたい)を発得(ほっとく)することが出来る。

凡夫心でこの十善戒を持つも、神の幸福を受くることが出来るということは、釈尊の確説である。

 

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