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第47 - 六凡の義
凡(ぼん)は平凡の義で、酔生夢死(すいせいむし)する衆生を云う。
- 天上 : 人間より勝れた徳、即ち十善或は禅定を行った徳の結果を受けた神等の住する世界である。
人間界で云えば四禅四定を修めて十善戒を持ち、人間離れのした高尚な道徳を有(もっ)て居る人等の住む精神的境界が即ちそれである。
- 人間 :
人間界は神ほど高尚な道徳はないけれども、畜生よりは遥かに優れた徳があって、その人間としての徳の標準は、一、殺生をしない、二、盗みをしない、三、不義邪淫をしない、四、虚言を言わない、五、酒煙草等を飲まない、この五戒を完全に守ることである。
今この人間界に生れ出たものは、みな多少とも或は何程かの間でも、この五戒を持った者である。
この中の一戒二戒を或時期の間守ったとか、或は総べてを長時間持ったとかに依て、同じ人間に生れながらも、その生活の情態性質の如何(いかん)等も種々に異なることとなるのである。
- 修羅 : 正しくは阿修羅(アスラ)
Asuraで、彼等はその福分は神と斉(ひと)しいけれども、その心は常に争闘を歓び好んで、無意義に戦争を起して、自他を苦しめる者等を云うのである。
これは現今の人々は有力なる魔神としている。
人間の中にては釈尊在世の前後に、ペルシャやギリシャ等から印度に遠征して、印度国にある宝を掠奪(りゃくだつ)に来た者である。印度人は彼等を阿修羅と呼んで居た。
現今でも他の国土を掠奪する為に、常に戦争を事とするもの、或は喧嘩諍論を好む者は阿修羅の種族である。
彼等は普通人間よりも勝れた力を持って居るけれども、忿怒(ふんぬ)心で他を破壊する結果、恐ろしい悲惨の苦果を受けねばならぬ点において、普通人間よりも劣っている。
これ等の闘争を事として殺生を省みない人間の住する所が阿修羅界である。
現今欧米各国の政治界は、生存競争優勝劣敗を不可避として、常に他国を奪うことに専心し、表に人道を云々しながらも、戦争の準備のみを密(ひそか)に経営する人等が、主として住する所であるから、全くの阿修羅界である。
- 畜生 : 禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)の類を畜生界と云う。
彼等は恥を知らないものである。人間は男女の関係において近親間の肉交は恥じて行わないけれども、畜生は母子兄妹の差別なく恥を知らずに交尾する。
そうして彼等の間では、強食弱肉が露骨に行われて、残忍なことも平気で実行する。
また甚だ無智昏昧であって、是非善悪の理解心もない。その生活は人間より見れば甚だ劣悪である。
もし人間であって以上説明したような行為をする者があれば、それは人間の形をした畜生である。それ等の者は、人相骨格も遂に禽獣と択(えら)ばないものとなるのである。
- 餓鬼 : 餓鬼界は飢餓涸渇(こかつ)に悩む一類の幽鬼の住む処を云うのである。
かかる幽鬼が実際に存在するかしないかは、冥界を見る眼を持って居らぬ人間には解からぬ事である。
但し釈尊が御説きになった餓鬼に生れる原因を見ると、吾人にも了解出来る点がある。
もし人あってその心に絶えず名誉を求めて、四方八方に奔走し、妄(みだ)り自ら称讃するも内に実徳なく、自ら虚しく智者賢人高徳に比べて平気で悪行を事とする者は、刀剣の餓鬼道に堕ちると、これは名誉餓鬼が心に断截(だんせつ)の苦痛を受けることである。
また財産飲食などに吝嗇(りんしょく)甚しい者は、無財、少財、多財の餓鬼や、針口餓鬼や、無食鬼や、食糞、食唾、食血、食肉等の餓鬼に生れるとある。
凡(およ)そ財利を貪求するに熱中し或は名位を得ることを渇望する者は、自ら現在に餓鬼道に堕ちて居る。
また色欲のために餓鬼となって苦んで遂に死に至る者もある。
かくの如き心の境に住する者は皆餓鬼道に住する者である。
- 地獄 : 地獄界においては現代人は大抵そんな世界は全くないと、一言の下に排斥し去って了(しま)うであろう。
それはまだ能く能く世界の実相を審詳(しんしょう)に如実に看破しない人の言うことであって、財界の窮迫した時には、自動車という火の車に乗って、逼迫する心の火焔に焼かれつつ東奔西走する紳(辛)士を見るであろう。
また選挙の落選に遭って顛墜(てんつい)した議員は、失望の冷氷裡に閉じられて、身動きの出来ないのを見るであろう。
或は人を殺し、或は強盗姦淫し、または虚言両舌罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)などを行い、または貪欲、瞋恚、不正危険の思想などに依て、十悪の業を行えば、この世ながらの地獄である牢獄に入れられて、心身に無量の苦痛を受けるであろう。
かかる者等の住む境界を人間の地獄界と云う。幽冥界の一百三十六地獄は、これ等の説明とも見られる。
さりながら、幽冥界の事は、前記餓鬼界の事と同じ理由で省略しておく。
以上六凡とて六種の凡夫が住する境界である。
これを六道輪廻と云って、衆生の各自が行った業の如何(いかん)に依て、趣くべき道であるから、六趣とも六道とも云う。
輪廻とは彼等が業の力に依て、或時は天界に上って神となり、或時は地獄に落ちて苦痛を受ける。
時に人間となり、畜生となり、餓鬼となり、阿修羅となる、恰(あたか)も回り灯籠のの火風に吹かれて回転するように、始終業火力の風に吹かれて回って居るのが、六道輪廻の現象と云うのである。
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