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第31 - 法仏一如本尊論批判

現今日蓮宗の学者間において、論ぜられている本尊問題については大要(たいよう)左の三種に分つことが出来る。

 

一、曼荼羅中の本尊は、題目自体である。

そうしてその題目は法自体であるのみではなく、久遠塵点劫(くおんじんてんごう)の古昔(こせき)に成仏せられた、本地の釈迦牟尼仏を顕わすものであるという事は、同宗の碩学(せきがく)、優陀那日輝(うだなにちき)の主張であって単称日蓮宗の宗義とも云うべきものである。

この義によれば題目を唱うることは、久遠塵点劫古昔の釈迦牟尼仏を念ずることとなるのであって、妙法蓮華経という題目が即ち根本的釈尊の名であると云うのである。

 

元来この説の根拠は日蓮上人の著書であると云われて居る御義口伝に、南無妙法蓮華経は、本仏の宝号なりと誌(しる)してあることによるのであって、久遠塵点劫古昔の釈迦牟尼仏を、一名妙法蓮華経と云うことになったのである。

かりに日蓮上人がこの説を出されたものとしても、この説の根拠が何から出ているかを調べねば、直ちに承認する訳には行かぬ。

然るにかかる説は法華経二十八品中にないことは勿論、一切蔵経の何処にも見出せないのである。

 

併(しか)しその文が蔵経になくとも、正しい理由があれば取るべきであると云い得る。

けれども妙法蓮華経と言うことは一経典の題目であって、仏の名ではない。

元来経典は法を表わすものであるから、その題目が法の名であると云うことが出来よう。

併(しか)し仏の名であると云うことは決して出来ないのである。

 

然るにそれを以て仏の名であると云うのは、こじつけである、詭弁である、融即(ゆうそく)応用の謬論(びゅうろん)である。

かかる点から見ると、古来日蓮宗において、御義口伝は偽作であるという説のあるのは尤(もっと)もであると思う。

 

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