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第3 - 印度における学派宗派の分裂

上座部大衆部の結集である経律論を伝える者等の中から、仏滅後百余年の後に大天(マハーデーヴァ)と云う僧が出て異説を唱えたことから、遂に十八部に分かれたものであった。

然るに菩薩衆の結集した三蔵を伝えたウパーサカ等あって仏滅後三百数十年に至るまで、文殊(マンジュ)菩薩等の護持する所であって、オリッサ国の王チャンドラ・パーラ王に、大乗の法を説いてその書籍を遺したのが阿難の滅後において、大乗仏教が世に出た初めであった。(パクサム・ジョンサン八二頁)

その後秘密主が出て密部の経典を多く世に出したので、顕密二教に分かれることとなった。

その中顕教は中論と唯識の二学派となり、密教は作密、修密、瑜伽(ヨーガ)密、無上瑜伽密の四宗に分れた。

 

そうして印度における顕教は宗派というよりは、一種の学派であって、中論は般若経を主とするけれども、その般若の中には総べての蔵経が含まれている意義であって、仏教全体の根本哲理を中道として説明するのであるから、後世の宗派の如き同一仏教中において勝劣を論じて、己れのみ是とするようなことはない。

さればこの哲学の開祖である龍樹菩薩は、八宗の祖師として尊崇せられて居る点から見ても、決してその主張の偏局でなかったことが知られる。

 

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