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第29 - 宗祖を根拠とする論者の矛盾

上述の如き根絶論に対して、或は言う者があろう。

原書にどうあろうとも、吾人は宗祖の言う所を信ずればそれで十分である、それ以上に穿鑿(せんさく)する必要がないと。

かかる論者は宗祖は誰を根拠として、一宗を開いたかを想えば、自らその蒙(もう)を啓(ひら)くことが出来るであろう。

 

併(しか)し日本仏教と自称する真宗の人々は、或は云うかも知れぬ。

吾人の仏教は日本で発達した東方仏教の粋(すい)であって、釈迦仏教よりは非常に発達した親鸞教である。されば印度の釈迦がどう説いてあろうとも、そんな事は問題ではない。吾人はただ日本製たる親鸞教を信ずれば事足ると。

 

まさか真宗の成立及びその伝灯を知る者は、このような暴言は云わないであろう。

特に親鸞は真宗を自ら造ったなどという考えは、毫も持って居らなかった事は事実である。

かの歎異抄には、

 以上の文に挙げたる、善き人とは釈迦如来を始めとし伝灯せる人々を指しておるのである。

 

然るに前節前々節に説明した如く釈尊の説いたとせられる正しい無量寿経の原文には、念仏称名を因としての往生を説かれた第十八願の文はないのである。

仮りにかかる原文が出たとしても、南無阿弥陀仏は無意義の片言であることは、既に論明した如くである。

 

親鸞が念仏往生のことを、釈尊が説いたように信じたのは、康僧鎧訳に無条件の往生を説かれ得るような文があり、且つその上に十念の念は念仏称名の念でも称でもなくて、原語はチッタで心であったことなどを、毫も知り得る便宜を持たなかった故で、その誤謬妄想に陥ったことも已むを得ないことであったと思われる。

かくの如く宗祖の誤謬妄想の上に立ている真宗は固(もと)より非仏教である。

それが国民の独立心を害する点より云えば魔教である。

 

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