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第13 - 教理上より天台の判教を批判す

全体仏教の目的は中道真諦に本具する涅槃那(ニルバーナ)に到達することである。

この点においては古来大乗と言われるものも、小乗と言われるものも、異なるところがないのである。

 

仏陀が鹿野苑の初転法輪において、道を覚った五人の比丘も、中道真諦なる涅槃那を了得して阿羅漢(アラハン)となった。

故に世尊は自分と共に世界に阿羅漢が六人となったと命ぜられて、自己の了悟と同一の域に達したことを示して居られる。

 

またそれより少しく後に同じ鹿野苑において五人の在家が四諦の覚を得て、中道真諦なる涅槃那(ニルバーナ)に達したのであった。

彼等は比丘(ビク)とは云われず、また阿羅漢とも名づけられなかった。彼等はウパーサカ訳は摂徳士(せっとくし)或は修徳士(しゅうとくし)と呼ばれた。

この修徳士が進歩した者の別名は、菩提薩埵(ボーデサットゥ)、略称は菩薩、訳は覚有情或は修道丈夫、西蔵訳には浄化修徳(チャンチュブ)の心雄(セムパー)と称せられるものである。

この菩薩の覚った所と阿羅漢の覚った所とは全く同一であった。即ち中道真諦なる涅槃那に達したのであった。

 

これが後世の天台によると、阿羅漢の覚(さとり)は仮諦(けたい)の覚であって、菩薩のは中道実相の覚であるなどと称して、高下の区別を付ける事となった。

併(しか)しながら原始仏教において因縁生滅の仮諦を正当に覚れば、それと同時に無我の空諦と実相の中諦とを悟ったものである。即ち空仮中三諦即一諦なる涅槃那に達したものである。

そうでなければ仏陀は彼等が涅槃那を得て阿羅漢になったと印可せられないのである。仏陀は弟子等に対して中道真諦の覚でなければ、阿羅漢として御許しにならなかった事は、些少(さしょう)の不徹底なる了解でもあれば、阿那含(アナーガーミ)或は斯陀含(サクダガーミ)または須陀洹(スロターパンナ)等の三位と四向との七階級中に入れて、容易に許されなかった事に依ても判然するであろう。

 

然るに天台はこの同一の涅槃那に差別あるものとして、一代蔵経を理法の上から化法の四教と判釈して、以下の如くに区別して居る。

 

前記の如く天台は仮空中の三諦の各自を別々に説くものの中で、仮諦を説くものを最下とし、空諦を説くものを中とし、円融中諦を説くものを上として居る。

併(しか)しながら涅槃那それ自体は、因縁の仮と無我の空と真諦の中とを同時に本具して居るものである。涅槃那自体に仮諦の涅槃那とか、空諦の涅槃那とか、中諦の涅槃那とか云うような別々の涅槃那はない。

 

涅槃那と云えば空仮中の三諦を本来具有して居ることは、三法印に依て証明せられる。即ち通仏教の特徴である三法印は、諸行無常印を以て因縁生滅の仮諦を示し、諸法無我印を以て人法無我の空諦を示し、涅槃寂静印以て諸法実相の中諦を示して居る。

この三諦を完備円融した妙諦が、阿羅漢覚知の実境であり、菩薩仏陀了悟の真界である。

 

この同一涅槃那を無理に区別して高下を付けたる天台判教の如きは、阿羅漢を誣(し)いる事の甚だしいものである。

 

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