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第90 - 仏言の逆用に対して仏魔の区別

涅槃経七に云う。

迦葉菩薩は仏に申し上げました。
「世尊さま、仏が説かれたように四種の悪魔があります。悪魔の説くところと、仏の説かれます所と、私はそれをどうして分別する事が出来ますか。
いろいろの人がありまして、悪魔の行に随(したが)います。また仏の御説に随う者もあります。
このような種類の人々を、どのようにして知ることが出来ますか。」

仏は迦葉に命ぜられました。
「我が涅槃に入ってから七百歳の後に、悪魔波旬(はじゅん)が漸(ようや)く起って、我正法を破壊するであろう。
それを譬(たと)えると恰(あたか)も猟師が身に法衣を着ける如くに、魔王波旬もまたそのようにして、比丘の像(すがた)や比丘尼の像や、優婆塞、優婆夷の像となり、或はまた須陀洹(しゅだおん)の身や、阿羅漢の身や、仏の相好に至るまでも化作(けさ)して即ち魔王自体の煩悩の身を以て、無漏(むろ)清浄のの身と現われ、以て我正法を攘(ゆず)るのである。
この悪魔波旬は正法を破るために以下の如き言を発するのである。
『それは仏は祇園精舎に居られて、諸(もろもろ)の比丘に許された。奴婢僕僧を受けて蓄(たくわ)え、また牛羊象馬を使い、金銀瑠璃真珠乃至釜鑊大小銅盤、所須(しょしゅ)の物品を貯(たくわ)え、田を耕し種を植え、販売市易する等仏は大慈悲の故に人々を憐愍(れんびん)せられて、みなこれ等を蓄えることを許された。』
と、このように説く経説は皆悪魔の説であると。」

 この文によって見るに、大集経の無戒比丘弁護の説は、確(たしか)に仏説ではなくて魔説であることを示している。

 

然るに末法灯明記の著者はこの大涅槃経の仏説を以て、恰(あた)かも仏入涅槃後七百年代の比丘僧の妄作かのように誌(しる)して居る。

その言に曰く

と誌(しる)してある。

 

もしこの著者にしてこの引文の下に出づる経文を引用するならば、如何にとぼけたりとて、前記の如き曲説はだせなかったであろう。

その経文は以下の如くである。

時に如来は婆羅門の羖羝徳(こていとく)と名くる者と、波斯匿王(プッセーナジット)とによって説かれたその言に
「比丘は金銀等の宝を受けて蓄えることはならぬ。
また田を耕やし種を播き、或は販売市易等もならぬ。
或は戯笑談説(ぎしょうだんせつ)、魚肉を貪(むさぼり)り嗜(たしな)みてはならぬ。
諸法の中において多く疑を起し、言葉多く妄(みだ)りに長短を説き、或は好んで美衣を着けて、不浄の場所、即ち飲酒店、遊女家、賭博場等に入るなど、このような人々は我は今比丘中にあることを許さない。
応(まさ)に道を止めて還俗せしめる。

これらの経説はみな如来の所説である。
もし悪魔の所説に随(したが)う者があれば悪魔の眷属である。
仏の所説に随順する者があれば、彼等は即ち菩薩である。」 (縮蔵 盈五、三四丁)

 

かくの如く仏魔の区別は真に明瞭である。

この大涅槃経の説は、全く遺教経の説と一致するものであって、涅槃部の経として、正説であることを自証している。

 

然れども末法灯明記の著者は、自説に都合好い部分のみを引いて逆用している。

何という曲説でまた何たる曖昧な説であろうか。

この著者の頭脳は八幡(やわた)の薮(やぶ)の中をさ迷っているようである。

 

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