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第87 - 禁受蓄金銀学処の成立

仏は王舎城の竹林精舎におられた。

その時その付近の村長で宝髻という居士があった。彼は仏の許に来て仏の御足に礼拝して仏に申上げた。
「近頃或所に王様や大臣や長者などが集りました。その中の或者が『仏弟子たる出家沙門等は金銀を受けて捉(と)ることが出来ますか』と尋ねました。
そこで或者は受捉(じゅそく)することが出来ると云い、或者は受捉することは不合理であると申しました。
仏様よこれは何(いず)れが理に適(かな)い何れが理に適わないのでありますか。
また何れが法の言葉でありますか。また何れが非法の言葉でありますか。
またこれは何れが仏を謗(そし)ることとなり、何れが謗らないこととなるのでありますか。
またこれはどちらが勝(すぐ)れた人の恥ずる所でありますか。どちらが恥じない所でありますか。」と尋ねました。

世尊は答えられて居士よと仰せられました。
「もし沙門釈子が金銀を受捉することを得と説くならば理に適(かな)わない。これは非法の言である。これは我を謗(そし)る者であって、勝(すぐ)れた人の恥ずる所である。
これと反対のものは善である。何故かと云えば居士よ、実に比丘僧は金銀の物を受けて捉(と)ることが出来ない。もし比丘僧あって金銀を受けと捉らないならば、これは沙門の法である。これは釈迦の弟子である。これは純善の法である。第二宣言、第三宣言もまた第一宣言の如くである。
もし金銀を受けて捉(と)る者は、沙門ではない。釈迦の弟子ではない。純善の法ではない。第二第三の宣言もまた第一宣言と同じである。」

そこで居士が申上げました。
「大徳さま、私の意にこのように解しました。もし比丘衆にして金銀の物を受けて捉(と)らない者は、真の沙門であって、釈尊の善い弟子である。もし受けて捉る者は真沙門でもなければ、釈尊の弟子でもありませぬ。」

次に釈尊は仰せられました。
「それは善い事である。それは善い事である。お前の意に解した通りであって、それは善い分別である。」 (縮蔵、張八、一〇二丁、著者訳)

 

以上の問答によって捉はただ触れるというが如き軽い意味ではなくて、その字の上に受けるという語のあることによっても、巴利(パーリ)語が示すが如く受けて捉(と)り持つ即ち蓄えるの意義あることは明白である。

元来この戒の成立は、諸(もろもろ)の欲望を満すに適当なる金銀の物品を、比丘僧に受けしめ持たしめることは、比丘僧をして放恣(ほうし)ならしめ易い事を慮(おもんばか)って、立てられたものであるから、ただ金銀に触れない位では徹底せないのである。

 

比丘僧として他から金銀を受けることもまた自ら捉持することも禁ぜられたのは、当時の出家に対しては適当であったのである。

当時の経済組織は通貨はあったけれども、大抵物々交換で需要と供給を満たしたものであった。それ故に比丘僧は物品を貰いさえすれば、それで生活が出来たのである。

 

然るに現今は、二千五百年の昔とは経済組織が全く変更して、貨幣が一切物品交換の仲介であるから、この貨幣なしには社会人としての生活は殆(ほと)んど不可能である。

然るにもし比丘僧にして貨幣を他より受くるとすれば、直ちに比丘僧の資格は消滅するのである。

即ち釈尊は金銀の物を受けて捉(と)る者は沙門でなく釈尊の弟子でないと言明せられて居る。

 然るに現今はこの戒律を実行すれば、忽(たちま)ちに生活は出来なくなる。

 

もし釈尊が当代に出でられたならば、必ずやかかる戒律を設けずに、比丘僧として金銀を受持せしめられたに違いない。

故にかくの如き時勢に不適当なる戒律の厳禁は、随方毘尼(ずいほうびに)の法則に従って抛棄(ほうき)せらるべきものであると主張する者がある。

 

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