三十捨堕法の第二条には、離三衣学処というのがある。
三衣とは、
の三を云うのであって、これと離れて一日一夜を過せば比丘僧たる資格はなくなるのである。
されば比丘僧であれば三衣中の一は常に着けて居らねばならぬものである。
洗浴の時すら身に下衣を纒(まと)って入浴して居る。
然るに現今我国の僧侶にして三種の袈裟を着ることはしばらく措(お)くも、法衣(ころも)と称する中古支那の俗服すら常に着用する者は稀になったのである。
現今の比丘僧が袈裟法衣を纏(まと)うことは、恰(あたか)も俳優が舞台に出る時にのみ装束を着けるように法式読経の時を限ってそれ等を纏うのである。
平素は羽織か袴か洋服などを着けて、全く俗人のそれと択(えら)ぶ所はないのである。
稀に殊勝なる心掛の人々にして、法衣と称(とな)うる俗服に、袈裟(実用的衣服)の用をなさない輪袈裟或は絡子(らくす)を用うる位にて、睡眠の時までも袈裟を用うるものはないのである。
さればこの点より見て我国には吾人を始めとして、一人も比丘僧はないのである。
また漢訳有部律の三十捨堕法の第十八条に、捉金銀宝等学処というのがある。
漢訳の戒題を見ただけでは、捉は触なりと軽く解釈して、金銀等の宝に手を触れないようにすることであるとも取れる。
古来我国の律院においては、この解釈法を用いて金銀に手さえ触れなければ、それでこの戒法は全う出来たものと思って、他より寺院に納金ある時は、食箸を用いてそれ等を摘み挟んで銭箱へ投げ入れたものであった。
また現今のセイロン、バルマ等でもやはりこの解釈法を用いて、かの比丘僧等は通貨をハンカチーフの一端に包み他の一端を提げて往来し、停車場船場或は商人等にそれを渡し自由にそれが必要の金を取らしめ、自己の所有を満(みた)して後彼等はまたその残金包を提げて行くのである。
また富裕なる比丘僧等は一人の会計係を雇入れて、その人に一切の金銭出納を司(つかさ)らしめ、自分はその現金を見てそれが出納の計算を聞くのである。
けれどもこれ等は何(いず)れも原語パーリ語における戒律の語義を没却(ぼっきゃく)したものである。
パーリ語には以下の如く出ている。
乃(すなわ)ち禁受蓄金銀学処であるから金銀を受けることも蓄えることも出来ないのである。
また漢訳の標題のみを見れば、曖昧に考えて触れさえせなければ好いように見えるけれどもその戒律成立の縁起を見れば次節に挙げるが如きものであるから、禁受蓄金銀の意義が判然として、一点の疑義をさし挟む所はないのである。
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