かくの如くウパーサカ仏教は、帰依三宝受持五戒という簡単明瞭なる標語によって明示せられる。
そうしてその必要なる詳細の意義は、前説明の如くである。
以上説明した所について、或人は云うであろう。
ウパーサカ仏教は仏教の究竟目的である解脱を得ないのかと。
勿論ウパーサカも仏弟子であるから、その究竟目的としては、解脱を得ることを主とする。
本来ウパーサカ、ウパーシカが家にありながら、五戒を持って修行するに随(したが)って、次第に進んで教理を観察して、衆生に対して報恩心慈悲心を起し、遂に菩提心を発起して十度行を修めることとなる。
この行を修むる者を菩薩と云うのである。
比丘僧の解脱は阿羅漢となって得るのであって、ウパーサカ僧の解脱は菩薩となって得るのである。
両者ともにその悟る所は四聖諦である。
この劃然(かくぜん)たる区別と関係とは、釈尊時代に最も明瞭であったことは、既に説明した如くである。
さてウパーサカが菩薩となって修行する次第を、以下に説明するであろう。
一、教理観察。
ウパーサカ及びウパーシカが、三宝に帰依し五戒を持つ功徳によって、心身共に修まり自然に静粛清浄なる心に住して、世尊の説かれた所の時間の無始無終と、空間の無辺無際と、吾人各自が業力の相続によって、無始劫来(ごうらい)三界六道に輪廻することの数限りなかったことを見て、その間に無数無限の生命において、自分の父或は母とならなかった衆生の一人もなかったことを観じ、且つ自己の父母であった衆生等が、現在四苦八苦の生死海に浮沈して、艱難(かんなん)することなどを観ずるのである。
二、報恩心と慈悲心とが、この観法によって勃然(ぼつぜん)として湧出するのである。
それは一切衆生は何(いず)れもみな自分の父母であった。さればその方々に対して根本的に恩を報いねばならぬと思う心が、強く働くのである。
そうしてその方々はみな現在
に悩んで居る。
そうして六道に輪廻する彼等の苦患(くげん)を見て、起る心は彼等をして根本的にその苦患(くげん)を解脱せしめて、常住不変の幸福を享(う)けしめたいという、慈悲心なのである。
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