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第7 - 我国における教相判釈の原因

我国における教相判釈の原因は、印度のとも、支那のとも異なっている。

印度に在った如き在家仏教徒が、菩薩として出家僧侶の短所を弾斥する為に、大小二乗の区別をなしたる如き事もない。

また肉欲享楽のために三顕六密と分って、その享楽の作法を最上瑜伽乗とするが如き、偽経の制作や判釈はなかった。

単に支那に行われたままの教相判釈を輸入したのが、奈良朝時代の仏教であった。

 

それでは我国民性に相応しないとあって、多少の変更を加えて立宗開基したのが平安朝初期の仏教であった。

かの伝教大師の華天密禅を合糅(ごうじゅう)した日本天台と、弘法大師が十住心論を著して、支那伝来の左道密教の分子を排除して、日本真言宗を開立したのとであった。

 

鎌倉時代に及んで禅宗は支那伝来のままに伝えられたが、士分以上の者等に信じられたけれども、民間には弘(ひろ)く拡布(かくふ)しなかった。

その時代に我国民一般に相応するために、即ちその時代の一般人民教化のために、法然、親鸞、日蓮、即ち円光、見真、立正の三大師が現れて、浄土宗、真宗、日蓮宗の三大宗を開立したのであった。

これ等の宗祖は、三経或は一経を主として、その主義も余程局限せられて、円光は称名往生を主とし、見真は信念決定を主とし、立正は称題成仏を主として、甚だ簡単明瞭となって、一般人民の入り易いものとなった。

 

そうしてこれ等教相判釈の根拠は大抵天台の判釈によるものである。併(しか)し天台判釈には殆(ほと)んど関係なしに判釈を構成なし得ると思われる、顕密二教の判釈を主とする十住心論の如きすら、天台と賢首の判釈を参考資料として、構成しているようである。

まして比叡山に学んだ鎌倉時代の三大宗祖は、何程細密にまた局部的に判釈構成しても、天台判釈の外に出ることの出来なかったのは当然である。

故に文字に依て説明している日本仏教と云われる各宗各派は、皆天台判釈の思想に基いて居ると断言して差支えないのである。

 

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