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第68 - 懺悔と帰依三宝

懺悔は仏法信者となる最初入門の要路である。

懺悔は人格向上の基本である。

自分を幸福に導く所の基礎行は懺悔である。

懺悔すれば罪果まさに滅すと仏が説かれた如く、心中に滅罪したという大安心は、将来徳行善道に進むことの出来る基因となるのである。

 

懺悔すれば心が清浄になるから、仏法僧に帰依するに適当な心となるのである。

かくの如く懺悔は入道に最も緊要なる心の要素である。

 

然るに世には因果発無の外道があって、罪悪のその身そのまま御助け下さるなどと唱え、恰(あたか)も罪悪あることが仏に救われる資格であるかの如くに、悪人正機などと主張する真の邪法がある。

これを世に真宗と云う。真に邪宗の意義であろう。

かくの如く懺悔を否定する罪悪容認の邪法は、正理を解するに低能なる人間か、或は多くの罪悪を行いながら、貪欲が深いので死後はまた大安楽を得たいなどと願う非道非理の多くの人間に最も適合する所から、それ等の人々に多く信じられるのである。

またその教(おしえ)を主とする者等は、不義の富貴を受けつつ豪奢淫佚(ごうしゃいんいつ)の快楽を恣(ほしいま)まにし、却って自らを苦しめ他をも苦しめている実情である。

 

世に無懺悔の宗教ほど社会に害毒を流すものはない。

これ実に仏の名を騙(かた)る魔の教(おしえ)である。

かかる魔教は一日も早く退治せねば、人民の進歩を閉塞し、国家の独立を危険にすることとなるのである。

 

無限の罪悪などが行われるこの世界に住する吾人人類は、自らのためにも他人のためにも、日々夜々(にちにちやや)に懺悔して、日進月歩以てこの世界に、真の徳化の浄土を建立せねばならぬ。

その最初の要素は懺悔心である。

吾人が現世に浄土を建立するには、吾人の智徳生命の進歩発達を最要とする。

この点より言えば懺悔なるかな懺悔なるかなと讃歎せねばならぬのである。

 

帰依三宝は巴利(パーリ) (阿輸迦王朝摩掲陀国首府の名にしてパータリプットラともパーリ、プールとも云う) 語にて、以下の如く唱える。

とあって直訳すれば前記の如くである。

 

これを古来漢訳に帰依仏、帰依法、帰依僧と訳したもので、南無仏等とは原語が違うのである。

意訳すれば、

 

この意義は、「私は仏という至極安心なる家に帰って行きます。」
即ち私は仏を家として帰りいくという念は、仏陀が衆生を愛護せられる念に一致融合して一体となる事であるから、仏に帰依したその時の一念よりして、驚怖もなく、狐疑もなく、煩悶もなく、苦痛もなく、一念透徹、仏陀の清浄念中に摂取せられて、大安楽を受けることとなるのである。

法を家として帰ることは、法と一致するのであるから、知らず識らずの間に、法の精神に進入して、それを実行することとなるのである。

僧を家として帰ることは、和合衆と一致することとなるのであるから、和合の宝を挙げて一致して徳の浄土に進み得るのである。

このように三宝に帰依することは、仏法僧の清浄なる大力に融合することとなるのであるから、実に功徳の広大なるものがある。

 

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