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第66 - 出家入禅修道

第四、入三摩地。

仏陀が出家の弟子をして真理を徹証せしむる方法として、まず初めに入道の基本として、戒律を実行せしめ、次(つい)で三摩地(サマーヂ)に入らしめて、法界の実相を観ぜしめられる。

その実相において世人が生老病死などに苦しむことである。それを如実に観じて徹証せられたる所の実在の真理を苦諦と云う。

 

それを徹証した苦の起る原因にして貪瞋痴の煩悩で、よく三界六道の苦患(くげん)果報を集起する能力を集(じつ)と云い、それを徹証した実在の真理を集諦と云う。

またこれは総べての苦を生ずる実在故、西蔵訳には総生諦とも云う。

 

これ等の苦の原因結果である集苦の二を滅すれば涅槃那(ニルバーナ)である。

涅槃那は惑業を滅し生死の苦を離れて真空寂滅であるから滅諦と名づける。

 

この滅諦に達する道筋は、

の八正道である。

この八法を修める時は、悉(ことごと)く邪非を離れるから正と云い、よく涅槃那に通ずることが出来るから道と云うのである。

 

苦(く)は有為の結果で集(じつ)はその原因である。

また滅(めつ)は無為の結果であって、道(どう)はその原因である。

何(いず)れもその結果を先に示したことは、解し易いことを主とせられたからである。

 

比丘にしてこの四諦を徹証せられた方が阿羅漢である。

阿羅漢は生死を解脱したその証悟の点においては、仏陀と斉(ひと)しいのである。

ただその行徳については、万徳円満とならないから、仏陀より劣るのである。

 

四向四果の八位を経て阿羅漢となる修行地の階級によって、後世の大方等家が菩薩の十地を確立し、仏説として証説したものである。

声聞の阿羅漢は菩薩の八地と同位であって、阿羅漢も菩薩の如き善慧地法雲地に相当する広大なる徳行を修めて、直ちに仏となるのである。

法華経に内に菩薩の行を秘(ひ)して外声聞を現(げん)ずとあって、声聞の行相で、その名も声聞にてありながら、実際は菩薩のことを行っているのである。

 

 

第五、化度。

声聞は他を済度しないで、自利行のみで過ごしているように、自称大乗教徒は言っているけれども、事実は彼等の説の正反対である。

如来の在世、声聞衆が衆生済度の為に、東西に奔走せられたことは、諸経伝の明記する所である。

 

当時の声聞衆は外に三学を修め、内に六度行を修めておられた。

この事は大迦葉波の施法、富楼那の忍辱、阿難陀の精進行の如き、また優波離の戒律における、須菩提の禅定における、舎利弗多羅(シャーリプットラ)の智慧におけるが如きは、何(いず)れも一方に勝(まさ)れたると同時に、他の衆徳をもまた具有せられていたから、浄行相の声聞にてありながら、同時に菩薩の六度万行も行われた事によっても知れる。

また阿羅漢等が如来の滅後において、三蔵の結集を行って、末代万世に至るまでの無量の法施を遺された如き、大功徳の利他行は決して菩薩のそれに譲らないのである。

 

上来説明した所によると、出家的解脱法は声聞の行う所であって、それが究竟の目的は成仏することである。

後世の自称大乗教徒が称(とな)える所の目的と、毫も異なる所がないのである。

 

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