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第6 - 支那に起こった判教の起源

支那に起った判教の起原は、印度の最後に起ったような、下賤なる肉欲享楽の欲望が根拠でなくて、その主なる原因は、吾学友鷲尾順敬君の説によれば

「仏教が西天から支那に移植されてから、かの教相判釈の完成者である天台智者大師が、玉泉寺において法華玄義を開演するに至る迄五百二十四年、この間に幾多渡来の印度僧や、漢土の篤学者等に依て、西域語及び梵語等から訳せられた仏典が数千の多きに達した。

そうしてこれ等の経典の中には、その意義の正反相容れざるものも多くあって、雑然混沌として帰一する所がなかった。それ故に六朝時代の学者等には、如何にしてこれ等を一仏教として統一あらしめるかが問題であった。

それで仏教教義を分類批判することが盛(さかん)に行われた。いわゆる南三北七義百家を成す迄、江南に三家江北に七家と云われて教相判釈の大家が数えられたもので、頓漸不定の三時教とか、半満の二教とか、有相無相の二種大乗とか、云うような分類が主張せられた。

そうして自力他力と分って組織する曇鸞(どんらん)も出れば、教内教外と分って総べての経典を無視して、仏教を実行と覚道に導かんとする達磨も出た。かくの如き試みが多く行われた。

その後天台智者の五時八教が出づるに及んで、教相判釈が完成したのであった。

そうして後支那及び我朝において、種々の教相判釈が出たけれども、皆その範を天台智者の判釈に取るもののみで、一歩もかの思想の埒外に出づるものがなかった。」

 

この説は、歴史的観察として正しい意見であると思われる。

 

この外に心理的に起原を求めると、我朝の名高い宗祖等にあったような、蔵経中一二の特出優秀なる経典を選定して、これに依て当代の人々を済度しようという欲望が、起因をなして居る者もあるようである。

かの天台の四教義に対立して、五教章を著(あら)わした賢首(けんじゅ)大師の如きは、確(たしか)に華厳宗を組織完成するという欲望に基づいたものと見られる。勿論その判釈の如きは、天台のそれに対向してそれより上に出でようとしたので、その趣きを異にしているだけであって、天台判釈の基礎より外に出ないのである。

 

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