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第57 - 因果律と自由意志との各本分

元来因果律は現象の変化相続に行われて居る所の法則であって、その本体ではない。

即ち現象が変化しつつ相続する間における、或著しい変化を捉えて、関係的に因と名づけまた果と名づけたものである。

 

前にも説明したように、その因はそれより以前の現象に対すれば結果であって、それより以後の現象に対しては原因となるのである。

そうしてその後の現象である結果も、もう一つ後の現象に対すれば、原因と云うべきである。

されば同一現象も以前に対すれば結果であり、以後に対すれば原因となるのである。

 

かくの如く原因結果と必然的に相続して居る間において、突然自由意志が勝手に働き得る機会はないように見える。

併(しか)しながらその因果律なる法則は法則であって、かの現象相続が行われて居るものの体ではないのである。

 

その体である心はやはり本来空であって自由である。

元来各自の心の蔵には、本有所熏(ほんうしょくん)の菩提種子と、無始劫来(ごうらい)の新熏種子とが、無数無量に存在している。

であるから吾人の自由意志はその所欲に随(したが)って、その中から何の種子にても選び取ることが出来る。

その選択取捨を自由自在に出来る意志の能力を称して、自由意志と云うのである。

 

かくの如く心が能力を発揮する上より見れば、意志はどこまでも自由である。

けれどもこの作用が現象として相続する法則の上より見る時は、どこまでも因果必然の関係である。

 

意志が自由に択(えら)び取ったる心臓中の種子も、それが現象相続の上より見れば、因果必然律に随(したが)って現われたものである。

即ち因果必然律は現象の変化相続の法則的説明であって、自由意志論は心空無礙の本能に基づく本体的解説であるから、毫も矛盾衝突する処なく、両者相俟(ま)って行われて居るものである。

 

吾人の心性に自由意志を本来具有して居ることは、因果必然律に依ても証明することが出来る。

それは吾人人類中から、最も究竟した完全円満の結果である正覚を得られた仏陀は、その意志が自由自在無障無礙であることは、何(いず)れの経典にも証説せられた処である。

そうしてその結果であるものは、必ずその原因にあったものであるという因果律に依(より)て、この仏陀の自由自在である結果は、やはり自由意志の発動に基づく、発菩提心が原因であったことが知れるのである。

 

本来衆生の心性中に自由自在の原因的能力即ち自由意志がなかったならば、その究竟の結果である仏陀に自由はあり得ないのである。

されば仏陀の自由自在ということが、吾人人類に自由意志のあることを証明しているのである。

 

かくの如く自由意志の存在及びその作用は、現在の実相に依てもまた因果必然律に依ても、証明せられるのである。

そうして吾人の心臓における無数の種子について選択する自由意志は、因果必然律が依て行われている所の体であって、先天的存在であるから、後天的因果律とは、何の矛盾なしに行われているのである。

これが明瞭になれば、因果法中ここに菩提心を起すということの可能なることも明白である。

 

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