仏教所説の因果必然律の如何(いか)なるものであるかは、既に説明した所であるからここに再説する必要がない。
ただこの性律は宇宙万般の現象の変化において、時間的に確実に原因結果と相応して必然的に相続して現れるものであるとすれば、その間において、自由意志が忽然(こつぜん)と作用を起し得るものであるかが問題である。
また徹底的にまた普遍的に因果必然律を主張する仏教が果して自由意志論を主張したであろうと云う者もある。
甚(はなは)だしきは仏教は因果必然説であって、自由意志論などは説いていないと主張した者もあった。
併(しか)しながら仏教は初めから宇宙万象成立の根源を、一切唯心造と説いて居る。
これを換言すれば自由意志論ということになるのである。
然らば仏教においては何を以て心が自由意志であるということを証説するかと云うに、仏教においては心性は本来空であると徹底して説明している。
大般若経六百巻も諸余の般若も経典も即ちそれである。
仏教特徴の三法印も空の真理が根拠となって、成立せられたものである。
諦の実在を主張するが如く見える四諦の説明も、人無我、法無我の真空に徹底しなければ四諦を如実に証了することは出来ないのである。
元来空とは無碍(むげ)にして自由自在のことを云うのである。
何物にも制限されない不羈独立無礙自在のものを空と云うのである。
そうして一切を造る心が空であるという事は、その心の原始的発動である意志が自由であるということとなる。
吾人の意志が自由であるから、吾人は一念清浄の意志を起し、或は一念不浄の意志を起し、または善意をも悪意をも自由に起し得るのである。
そうしてこの事は理論のみに存するのでなくして、実際の心現象に現われる事実である。
即ち吾人が日常親しく実験する事実である。
この現在の事実による理論が因果必然説と衝突するように見えるのは、その本分を混同するからである。
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