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第54 - 感応道交の種類

この感応道交に四種類あって、

である。

 

冥機冥応とは過去の生で、善く三業を修めて信心をした者が、現在の生において未だその機熟せず、故に信心を起さず身口の善業を運ばないけれども、内に昔の善根を有(も)っているのを冥機と云うのである。

この冥機の者は現に霊応を見ないけれども、密(ひそか)に法身の益する所となって、見ず聞かず知らざる中に利益を覚知するのを冥応と云うのである。

例せば突然天から授かったように大なる福分を一時に受けるような人は、多くはこの冥機冥応の種類に属する。

 

冥機顕応というのは、過去の生で善根を植えたが、今生でその善根の成熟しておるのが冥機であって、忽然(こつぜん)仏世尊に遇(あ)って、甘露法の大利益を受けるのが顕応(けんおう)である。

仏陀が出世せられて説法せられた最初の時分には、その当時の衆生等にして、彼等の現生において仏陀に遇(あ)い得る程の、大福分を積んだ者はなかった。

併(しか)しながら仏陀は彼等の過去の福分を照観せられて、自ら進んで彼等を済度するために遇(あ)いに往(い)かれたのであった。

 

顕機顕応と云うのは、現生において精進怠らずして、身語意業を仏陀に集注して、一心に専修する時は、能く如来の降臨を感得することを云うのである。

例を挙ぐれば給孤独長者が、王舎城から未明に霊鷲山に上って、仏前に長跪懇請したので、仏は遂に祇園精舎に行かれたことの如き、また勝鬘夫人が阿喩闍(アユジャ)城中から祇園精舎に向って、至心に合掌して如来の来臨を招請した時に、忽然としてその面前に釈尊が現われて、説法せられた如きことをいうのである。

 

顕機冥応とは現生において、孜々(しし)として三業一致して信心をなし、また善を行い徳を積むことに努めるけれども、現生には一向にその利益は現れないで、死後に至ってその機の熟する時冥界に感応してその利益を受けることを顕機冥応と云うのである。

冥応は勿論(もちろん)後生で受けることも云うのである。これは現生の顕機より見る時不明に属するゆえに冥応と言ったものである。

 

かくの如く感応道交の原理を説明すると、或は浄土門に属する人々は云うであろう。

吾輩の信ずる阿弥陀仏もまたこの説の如く、衆生の信心に応じて、極楽往生の利益(りやく)を与えられるものであると。

【然るに】前にも説明した如く阿弥陀仏は無量仏であって、説者の思っておるような、西方極楽世界の教主である無量寿仏ではないのである。

その上南無阿弥陀仏と云うことは、無意義の語であるから、発声しても何の意味も通ぜぬ事である。

またその上この無意義を符号化して一種の意義あるものとしても、それを信じて唱えることに依て、極楽往生させるという誓願、即ち第十八の願は、前記の如く半作半訳の経の外には、仏の説かれたと云われておる原典にも、訳経にもないのである。

かくも無意義にして無根拠なる南無阿弥陀仏を、何程信じ何程唱えても、零(ゼロ)番の電話を呼び出すように、徒(いたず)らに声をからして何の応答も得ないのである。

 

尚(な)お主客相対感応道交の原理は、宇宙の大組織を構成する天文的系統においても、行われて居るのである。

一太陽系統においても、それが主たる日と客たる遊星とが、同時に相互に牽引して、一糸乱れざる整列運行を持っている。

このような太陽系統が幾多空間に運行して、他の一太陽系統の周囲を回って居る事は、恰(あたか)も諸遊星が太陽の周囲を廻(め)ぐるが如き状態である。

かくの如く諸遊星が一太陽に、また書太陽系統が一太陽系統に重々関連して、相互に牽(ひ)きつ引(ひ)かれつつ、同時に相対感応して、整然として運行が行われて居るのである。

 

かく宇宙大に行われて居る真理は、やはりその宇宙間の一小部分である、吾人人間の業力にも行われて、吾人が本有の仏心は、帰入信心の感光を以て、この宇宙間に遍満する仏力に応じ、相互に感応道交して至上の利益を受けるものである。

以上述べた所に依て、大略主客相対感応道交の原理が明らかになったと思う。

 

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