種子(しゅうじ)の貯蔵と発生。
どうして諸種の業が能く将来の苦楽の結果を招く因となり得るかと云うに、吾人が行った業は何(いず)れもみな心的種子となって一々心の蔵に貯えられる。
その種子は外界の助縁に応じて、発生して業の結果を現わすのである。
勿論吾人の心の蔵には、無始劫来の種子が無数に貯えられて居るのみでなく、自心本有の仏性的種子も、如来蔵心中に収められて居るのである。
この仏性的種子は、外から善い助縁が来る時、それは善知識に近づき、正法を能く聴聞し、現にその聴聞した所を善く思考して、その説の如くに実行したいという決心の出た時に、菩提心を起すこととなる。
その発菩提心が因となって、十波羅密の実行を生じて、自利利他の菩提樹を培養し、遂に無上の仏果を得ることとなるのである。
これが清浄因に対する清浄果である。
自業自得は因果律に行われる鉄則である。
自ら作った善悪の業によって、自らその結果の楽や苦を受けるものである。
或はこれを自作自受の法則と云う。
正法念処経に獄卒が罪人を責めた偈に、
とあるように皆各自が行った業に相応した結果を受けるものである。
併(しか)し親の罪が子に報うという諺(ことわざ)があるが、これはどうか問う者がある。
これは同類所感の業と云って、偶(たまた)ま親と子が類似の罪業を犯したものが親となり子となったまでであって、やはり子の受けた苦果は、子自身の罪業の然らしめたものである。
これに反して親が甚(はなはだ)しい悪人であって、それ自身に苦果を受けても、その子が善人であって楽果を受ける者が、世に随分沢山あることに由(より)ても、各自の自業自得であることは知るべきである。
この法則は他人のした事の原因に対する結果を、自分が受けることもなければ、また自分の業の結果を、他人が受けることもないのである。
いわゆる他作自受もなければ、自作他受もない。
各自の自作自受のみであることを明(あきら)かにしている。
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