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第48 - 四聖の説明
六凡とは全く趣きを異にして、六道輪廻の境界から超出したものが、声聞、縁覚、菩薩、仏陀の四聖(ししょう)の境界である。
これ等の四聖は人間から飛び離れた尊い境界の方である云うだけではなく、総ての神々からも超出した清浄端厳な方々である。
以下それ等の境界について説明する。
- 声聞 :
声聞界は従来自称大乗仏教徒からは、自利一偏で小知劣行、実に卑しむべき境界に住む者として、殆(ほと)んど外道の如くに蔑視されていたものである。
また声聞根性という語は、利己一偏の貪欲漢の代名詞の如くに、用いられていたものである。
けれども声聞という語の本義は、仏在世及びその滅後において数百年間非常に尊い名として、用いられていたのであった。
その次第は、声聞は釈尊から親しくその声を聞いた所の直弟子という意味であった。
声聞中の最も貴い位は阿羅漢である。即ち降伏敵者である。いわゆる煩悩の敵を降伏して、不生の悟を開いた聖人である。
この点においては、仏陀と斉(ひと)しい正悟の人で、一切智を得た者である。
ただ完全なる徳の集積において仏と斉(ひと)しくないので、道種智と一切種智を得られない。
けれども仏陀や菩薩と同じく四諦の覚智を得たものである。
それ故に六凡の如く生死(しょうじ)の海に浮沈することなく、そこを渡り了(おわ)って涅槃の岸に着き、寂滅の楽を受けられる方である。
そうしてその他に対する態度も、決して自称大乗教徒の誣言(ぶげん)する自利一方の者でなく、みな各自の徳分に応じて利他行を修めて居られる方々である。
- 独覚 : 独覚もまた声聞と同じく自称大乗教徒より、小乗として卑しめられていたものである。
けれども決して卑しめらるべき者でなく、却って讃歎せねばならぬ貴い聖人である。
その次第は仏陀の未だ世に出でられない以前か、或は無仏教時代に世に出で、自ら独りで天地間の現象を観て、その原因助因で構成する原理を知り、それに由(より)て万法不生の真理を悟り、声聞と同じく一切智を得て、その時代の衆生を教化せられた方々である。
このような聖人の住する境界を独覚界と云うのである。決して自称大乗教徒の侮蔑するような、自利一偏の小人ではないのである。
さればこの独覚も前記の声聞も、決して彼等が云うが如き小乗教徒ではなく、全く一乗教徒である。大乗教徒である。
彼等の信奉する所は一乗仏である。声聞の行為は比丘出家としての清浄業であって、独覚の行為は在家菩薩と出家との両者の行為に似た所があるのである。
- 菩薩 : 菩薩は梵語の菩提薩埵(ボーヂサットヴァ)
Bodhisattvaの略称であって、漢に大道心衆生と云い、また大覚有情と云った。また意訳して開士、始士、大士、高士などといった。
西蔵語に訳してチャン・チュブ・セムパー、即ち浄修心雄と云う。その意は罪悪を浄除して、道徳を実修する精神的英雄という義である。漢訳にも菩薩は勇猛の義とあって、精進勇猛にして大菩提を求むるが故にとある。
以上の意義を要約して吾人に解り易く訳すれば、菩薩は修道の丈夫と云うべきである。
仏在世及び滅後三百余年間は、全く在家の菩薩のみであって、比丘出家の菩薩はなかった。されば仏在世の当時優婆塞(ウパーサカ)戒を立てられたが、それは菩薩戒の事であった。
現に今遺(のこ)って居る優婆塞五戒威儀経は、曇無讖(ダハルマセーナ)訳の菩薩戒本経と、玄奘訳の菩薩戒本とは、同本異訳である。
これに依ても菩薩は皆優婆塞即ち在家の者のみであった事が明らかである。
在家出家の菩薩を区別し出したのは、龍樹の大智度論巻の七に、「菩薩に二種ある。居家と出家とである」と。そうしてその出家の菩薩として挙げた者に、弥勒や文殊の在家形相の菩薩を挙げているのを見ると、龍樹の時には未だ密教儀規で出来上った、比丘形相の地蔵菩薩はなかったものと見える。地蔵菩薩も顕部では在家形相である。
後世支那で比丘の竺法護を敦煌菩薩と称(たた)え、我国では聖武天皇が行基大僧正から授戒を受けて、勅(ちょく)して行基大菩薩とし、僧日蓮を日蓮大菩薩と信者等が呼ぶに至った如きは、みな後世の事である。上古仏教時代には菩薩は在家のみであったと知るべきである。
家に居て仏教を修める士であるから居士とも云う。即ち妻子眷属あり家庭を持って、各自の業務を営みながら、仏教を修行する人で、菩提心を起して菩薩戒を持つ者を、菩薩と云うのである。
この菩薩の修行位に五十一の階段ありとするのが、漢訳華厳経の説である。
ただ菩薩に十地のみありとするのが、西蔵仏教徒の主張する所である。西蔵伝に依れば十信、十住、十行、十回向も等覚も取らずにただ十地のみありとする。但し西蔵には、華厳経はあるのだけれども、その説は用いられてないのである。この十地説は声聞の四向四果と縁覚位を基礎として、後世の大方等編纂家が造ったものであろう。
何故なれば仏在世には出家も在家も悟った究竟は、みな同じく四諦の真理であったからである。悟った真理は同一であったけれども、行う所は菩薩は在家で、布施を先として持戒、忍辱、精進、禅定、智慧とを修行するものである。
無辺の衆生を済度することを本領として行う故に、諸種の道を能く知るので道種智を得て居る。かかる修行者の住する境界を菩薩戒と云うのである。
以上説明した三聖は、何(いず)れも皆直接に仏陀となるべき階段にある、身分の異なる弟子達の区別である。
これを従来の説明によれば、始(はじめ)より後のものほど一段づつ高いものとして、菩薩にならなければ仏陀となれぬものとしている。
けれども釈尊は在俗のままでなく、出家して仏と成られたことを示していられる。また龍女は在俗のまま仏と成られたことを示している。
されば出家比丘の声聞道よりも、仏となり得るのみならず、菩薩としても仏となり得るのである。
されば声聞も縁覚も菩薩と同じく、他の階段を経ずして仏と成ることは、声聞の内秘密菩薩行の修徳に依て、成仏の授記を得られた法華経の文によって知ることが出来る。
- 仏陀 : 覚者の語義及び十号の義などは、既に述べた所であるから、ここには再説しない。
ただその大智慧の光は、太陽のそれよりも心内深く照し、大慈悲の潤いは、大雨のそれよりも心中に甚(はなはだ)しく徹し、眼を開いて仏光を見んとする者には、無礙智を施し、手を拡げて受けんとする者には、妙法の甘露を施されながら、仏陀自らは寂然不動涅槃微妙の無上楽に、不断不変に在らせられる絶妙なる境界に住せられるを仏陀界と云う。
以上六凡四聖の十界は、衆生世間の説明である。
これ等衆生のよる所を、国土世間と云う。
これ等を構成する物心の要素より云えば、五蘊世間である。
以上自然現象としての法を説いたものである。
なおこの外に自然現象中国土世間を四つに分(わか)つ法がある。
- 一、凡聖同居土(ぼんしょうどうこど)
- 二、方便有余土(ほうべんうよど)
- 三、実報荘厳土(じっぽうしょうごんど)
- 四、常寂光浄土(じょうじゃっこうじょうど)
である。
これ等が各自別々に有形的に在るかの如く、また純理的にも説いたのが、天台の説であるけれども、維摩経疏によれば、常寂光浄土は妙覚極智の照らす所であって、如々法界の理に名づけて国と云うと純理的にのみ説明している。
一見四水の譬(たとえ)の如く、この世界を人天の凡夫は凡聖同居土と見、比丘出家であって、生死度脱の覚は開いたけれども、なおその道徳が広大深遠でない阿羅漢などは、この国土で方便して仏徳に斉(ひと)しからんとする余修が残っているので、方便有余土と見るのである。
また徳を広大に修むる菩薩は、この土を実報荘厳土と見るのである。
仏陀は勿論この娑婆世界に住せられながら、そのまま常寂光浄土に住していられるのである。
さればこの四土は各人の所見であって、別々に有形的に異なる国土があるのではない。
心の住する境界であって、同じ草木国土の外界が、その人によって異様に現れるのである。
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