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第42 - 一切蔵経一仏乗説主としての本尊

一切蔵経が総べて一仏乗であることは、上来の説明に依て明白になったと思う。

そうして一仏乗が即ち大乗であり、無上道であり、最勝法であることもまた明かになったと思う。

 

偽経を除いて真実仏説の一大蔵経は、云うまでもなく釈迦牟尼仏に依て説かれたものである。

されば一切蔵経は一言一句の端に至るまで、みな釈迦牟尼仏の真心の発露である。

いわゆる金口(こんく)より出た所の金言である。

この金言は吾人が信心の砥石を以て研ぐ時は益々その光輝を発揮する。

かかる金言を無限に吾人に向って施与せられた主が、釈迦牟尼如来であらせられる。

 

また釈尊所説の妙法を以て清流に譬えると、八万四千諸種異様の煩悩の汚濁を浄化する諸経を発した源泉は釈尊であらせられる。

されば全仏教の根本第一の本尊としては、釈迦牟尼仏を外にして何処にも誰もないのである。

 

もしこの本尊に対して異論を挿んで、外に本尊を立てる者があれば、それは決して仏教徒ではない。

外教徒か宗派偏見者流である。

決して純粋の仏教徒でないということを断言する。

 

前述の如く本来釈迦牟尼仏は全仏教の根源である。

八万四千の法門も五千余巻の経律論も、みな釈迦牟尼仏から発出したものである。

仏教徒名の付く程のものなれば、片言隻語(せきご)も釈尊の御心(みこころ)より出て居らないものはない。

その全部の源であらせられる釈迦牟尼仏を本尊としない者は、非仏教と云うとも過言ではないのである。

 

現今我国において最も勢力があり民心に浸潤(しんじゅん)して居るものは、この非仏教である。

真実仏教の感化などないのが当然である。

 

けれども一切蔵経中高僧善知識が著述したものも沢山あるから彼等がそれ等の著者であるという理由を以て、彼等を本尊としても善いではないかと云う者があろう。

併(しか)しその著述は釈尊経説の末説であって本でないから、固(もと)よりその著書の説主を本尊とする理由は毫もないのである。

 

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