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第41 - 仏陀名号の大乗的通義

前節説明の十種通号は如来の十号とも云う。

何(いず)れの仏陀も無量の徳を持って居られるのであるから、無数の名を有せられるのであるけれども、十を完数としてその中の代表的のものを択(えら)んで、十名を挙げたものである。

この十号は云うまもでなく仏陀に対する普通名詞であって、何(いず)れの仏陀もみなこの十号を備えて居られる。

そうして釈迦牟尼、無量寿、大日、薬師、阿閦(あしゅく)、宝積などは各仏の特称であり、別名である。

 

この十号の外に仏陀に対する普通の尊称として、世尊、世界主、世雄、世間眼、一切知者、大聖知者、救世主、降魔主、知三世者、無上尊、離貪欲者、天中天、上勝導師、人中尊、化無形者、衆生上人、大智光、自在主、人中獅子、法王等、これ等の通号は屡々(しばしば)諸経の中に用いられているものである。

これ等は弟子等が十号のみでは満足出来ないで、かくの如く他に多くの尊称を用いることとなったものである。

以上如来十号の外に、二十種の尊称を挙げて、計三十号を以て聊(いささ)か如来の徳を讃歎する一端に供した。

 

そうしてこれ等の尊称は、現今小乗と称せられている阿含部の経中にも、屡々(しばしば)誌(しる)されたものであるけれども、世のいわゆる小乗思想を以てしては、これ等敬称の意義を完全に説明出来ないものが多くある。

自称大乗教徒の如くに小乗を以て自利を主として、利他を省みないものであるとすれば、仏陀という語が自覚覚他覚行円満という義を以て、説明出来ない事となる。

そうして自利利他円満の解釈は、かの大乗の占有とならねばならぬこととなる。

 

然るに小乗部に属せられる善見律毘婆娑の第四には、

これはいわゆる大乗の自覚覚他であって、世間を覚悟するという徳は覚行円満である。これ世の所謂(いわゆる)大乗である。

この大乗思想を誌(しる)した律書を以て古来小乗部に入れてある。これに依てもその大小区別の乱暴なることを知るべきである。

 

これは本来一仏乗であり、一大乗であるものを、大乗小乗と強(しい)て妄(みだ)りに区別したことから、このような乱暴を敢(あえ)てすることとなったものである。

この外、人化調御師も、天人教師も、阿羅漢も、世間解も、救世主等も、みな利他を主とする徳の名称である。

 

また小乗部に属する経中に、無数に呼称せられる世尊という語は、梵語に薄迦梵(バハガヴァン) Bhagavanと云うので、この語に以下の如き六義がある。

他を教化するに自由自在の徳があって、その能力が熾盛(しじょう)であり、人を不言の中に教化(きょうげ)する形相端厳の輝きがあり、他の煩悩妄想を破る徳があって、無上甘露の解脱の妙法を他に恵み施される。

これ等万徳の故にその名が自然に十方に聞える。かかる徳を以て世を浄化せられる、真実大慈悲の結晶である世尊という名が、無数に用いられて、それに斉(ひと)しき広大なる思想がその経の全部に表われて居る阿含部の経典は、大乗でなくて何であろう。

 

元来小乗という語はその始め外道に対して用いられたものが、後に誤解仏教徒利己主義の出家比丘の主義に命名せられたものである。

然るにその語を以て仏真説の経典や律部に付名したことが、抑(そもそ)も誤謬の始めであって遂に妄分別の大罪悪を犯す事となったのである。

仏教は、華厳も阿含も法華も遺教も一切蔵経悉皆(しっかい)通じて一乗である、大乗である、無上乗である、最勝乗であると、仏陀が自説で以て証明せられた処(ところ)である。

 

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