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第40 - 仏陀十号の略義
この外に、仏陀の広大無辺なる徳の一端を知るのに適当なものは、如来の十号である。
それを漢訳には
- 如来(にょらい)
- 応供(おうぐ)
- 正遍知(しょうへんち)
- 明行足(みょうぎょうそく)
- 善逝(ぜんせい)
- 世間解(せけんげ)
- 無上士(むじょうし)
- 調御丈夫(ちょうごじょうぶ)
- 天人師(てんにんし)
- 仏世尊(ぶつせそん)
の十名を挙げて居る。
以下原語の義に随(したが)い西蔵訳を参照して、漢訳とは幾分異なる訳名を挙げて、説明することとする。
- 一、如来は梵語に多陀阿迦他(タタハーガタ) Tathāgataと云う。
この語に二義あって、一は彼の如くに来られた者という意で、前仏の如くに来られた者の義である。
二はタタハは真如でアーガタは来で、真如の実体から来られたという義である。
第一説は如来の伝灯的説明であって、第二は理法的の解釈である。
- 二、梵語に阿羅漢(アラハット) Arhatのアラは敵で、ハットは降伏すまたは殺すの義で、正(ま)さしくは降伏敵者と訳する。
その義は自己を最も悩す所の煩悩を降伏した者と云うのである。
漢訳には応供(おうぐ)と訳して居るがこれも正訳である。ただ他の要義を表す為に西蔵訳を用いたものである。
この阿羅漢(アラハット)という如来十号中の一名は、古来自称大乗教徒が非常に卑しめて呼ぶ所の、羅漢という語の正しい発音である。もしかの徒の言うが如くに、羅漢という語が自利一偏の者に名づける者なれば、如来の十号中にはこの名はない筈である。
特に応供という義がある位で、他の供養に応じて、他のために福田となられる、利他の徳の具えて居られる者の名である。であるから毫も卑しむべき所はないのである。
併(しか)しながら如来十号中の阿羅漢は、大乗の阿羅漢で声聞のは小乗の阿羅漢であると云う、かくの如き説は因襲的に大乗小乗の区別を盲信している者には通ずる説であるけれども、仏陀は大乗のみを説かれたのであって、小乗は後世の誤解仏教に名づけられた事を知る者には通じない説である。
- 三、三藐三仏陀(サンミャク サンブッダハ) Samyak
sambuddha、このサンミャクは完全、サムは円満、ブッダハは覚者で、即ち無明の夢から覚めた者ということである。
漢訳は正遍知と簡単に訳して居る。
- 四、鞞侈遮羅耶三般那(ヴィデヤ チャラナ サンパンナ) Vidya charana
sampannaは、ヴィデヤは智、チャラナは行、サンパンナは完成者で、即ち智行完成者である。
智徳と行徳とを完全に成就せられた方の義である。
漢には明行足と訳してあるが、足は手足の足ではなくて、満足の義である。
- 五、修伽陀(スガタ) Sugataは、スが善で、ガタは逝く、即ち善逝である。
それは涅槃那(ニルバーナ)に善く逝かれた者の義であって漢訳と同義である。
- 六、路迦鞞(ローカヴィド) Lokavid、ローカは世間で、ヴィドは解で、即ち世間解である。
それは仏陀が出世間の事を知り給えるのみでなく世間における一切の事をも知り給うの義で、漢訳の世間解と同義である。
- 七、阿耨多羅(アヌッタラ) Anuttaraは、アンは無で、ウッタラは上士で、即ち無上士である。
その意はその上に何者もない最上なる者の義である。
- 八、富楼沙曇藐婆羅提(プルシャ ダムミャ サーラチヒ) Purusha damya
sarathi、プルシャは人、ダムミャは化、サーラチヒは調御師で、人化調御師である。
その意は、仏陀は人を化導するに、柔和なる言葉或は苦切なる言語を以て、自由に調御教化せられるから、その徳に名づけた者である。
漢訳の調御丈夫は人化の義が省かれて居る。
- 九、舍多羅提婆摩菟舍喃(シャストラ デーヴァ マヌッシャーナム) Shastra deva
manushanam、シャストラは教師で、デーヴァは神で、マヌッシャーナムは人等の義で、即ち神と人等の教師の義である。
現今の多くの学者は神も仏も同一の者のように思い、また同一の者として取扱って居るけれども、仏教より見れば神は人間より霊性に富んでいるとしても、彼等は人間と同じく、貪瞋痴の三毒を多少とも具えておるのであるから、仏陀より見ればやはり普通の凡夫である。
そうして仏陀は一切の凡夫を教化せらるのであるから、やはり神等の教師となられた所以である。
- 十、仏陀(ブッダ) Buddhaは覚者の義であって、西蔵訳のサンゲーを解釈すれば、無明の夢より覚めてその覚徳の広大なる者を云う。
漢訳の覚者の義は悟った者の意であって、詳しく云えば自覚覚他覚行円満である。
漢訳は心理的に訳し、西蔵のは譬喩的に訳して居るが、何(いず)れも帰する所は同一である。
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