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第38 - 空想の神と法身と実在の仏陀

世に理想のみを尊ぶ一派の人があって、実世界の実相から全く懸け離れた空想をも、理想として歓喜信仰する者がある。

その空想から出来上った神に二通りある。

一は神話的造物主であって、二は哲学的創造主である。

 

第一は旧約全書創世記の一に、元始(はじめ)に神、天地を創造(つくり)たまえりとあって、その後六日間に一切万物人類までも、造ったことを誌(しる)している。

これが神話の造物主である。

第二は新約全書約翰(ヨハネ)伝の一に、「太初(はじめ)に道(ことば)あり。道は神と偕(とも)にあり。道は即ち神なり。この道(ことば)は太初(はじめ)に神と偕にあり。万物これに由て造らる」とある。

この神は少くとも哲学的思想の上に出来上った創造主である。

 

第一の神話の神は、創世記作者の心に現れた造物主を描いたものであって、その時代の半開人の幼稚な思想には、到底この地球が十四億年以前に太陽から分れたかなどというような、科学的知識は夢にも見ることが出来なかった。

当時の思想家が、僅かに六千余年以前に、神は六日間に天地万物を造ったなどという作品は、当代人を驚かした逸品であったであろう。

これが神話に出来上った、空想なる神の善い例である。

 

次に新約時代の人々は神話の神に満足出来なかった。

旧約時代の法律的厳酷なる神を厭(いと)って愛の神を要求していた。

そこでキリストは法律的の神を棄てて愛の神を宣伝した。

そうしてかの弟子中最も哲学思想の深かった約翰(ヨハネ)は、神話の神を取らないで神の先在として道(ことば)の存在を主張している。

 

即ち太初に道ありと最初に宣言して、次(つい)で道は神と偕(とも)にありとして、その共在を示し、次(つい)で道は即ち神なりと云って、二即一で一体のものとして示している。

この文義は一神が一番最初の存在者であることを主張する。

基督教的解釈を有する同教徒には、不可思議の言句であって、いと賤小なる我等には神の御思召(おんおぼしめし)は到底解らないと引下がるか、或は詭弁的説明を試みるかより外に道はないのである。

 

しかし仏教の哲理より観(み)れば、道(ことば)は梵語のnāma(名)であって、神は梵語のrūpa(形)である。

ナーマは即ち心であって、ルーパは形即ち形ある神である。

太初に道(ことば)のみなる一心無形の存在があって、次(つい)で形あり活用ある神があって、その心と共に住した。

この形心不二の一体から、宇宙万物の生じた事を説明したものが、約翰(ヨハネ)伝における哲学的説明の創造主である。

 

成程この神は神話の神よりも高尚であるけれども、これはヨハネの哲学的思索の上に構成せられた、一種の空想的顕現である。

 

また哲学において理想上推究構成せられた本体的造物主は、これまた哲学者の一種の空想であって、具体的実現の人格がないのであるから、吾々人類の本尊とすることが出来ぬ。

これと同じく仏教で応身を見下して、法身を最勝として本尊とすることも、同一の誤謬に陥っているのである。

 

併(しか)しながら法身に人格ありとして、それの説法することを主張するのが、古義真言の主張である。

けれどもこの説が如何に不条理であるかは、同宗内においてすら法身不説法加持身説法を主張する、新義真言のあるいに依ても、証明せられるのである。

 

尚(な)お秘密宗中最も後に出た西蔵新派は、顕密仏教の通義上、法身は決して説法しないものとして、断然として応身説法を主張して居る。

吾人の対境からして聴聞し得る説法は、応身のみからであって法身からはただ法爾自然の鳥声水音などを聞くのみである。

これ等の音声を以て法身の説法と聴く者は、瑜伽(ヨーガ)行者の観心中にのみあるものであって外界は依然として鳥声水音である。

その外に人格的法身の説法などあると云うことは、応身説法に連想して、妄(みだ)りに想を高上せしめた一種の妄想である。

 

かかる妄想上の作品を以て、実際的本尊とすることの出来ないことは、現今真言宗が大日如来本尊に疎遠になりつつある実際に徹しても、容易に知ることが出来るのである。

かくの如き理由によって吾人は歴史上実在であらせられる釈迦牟尼如来を、仏教の唯一本尊とする所以である。

 

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