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第35 - 禅宗の本尊論批判

禅宗に本尊があるかと云えば、人々個々本来円成の仏陀が本尊であるら、客観的には唯一の本尊がないとも言い得る。

釈尊何人(なんびと)ぞ、我何人(なんびと)ぞ。彼も仏なり、我も仏なりという見地より見れば、自己本尊の外に別に本尊はないこととなる。

教外別伝不立文字(きょうげべつでんふりゅうもんじ)、直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)の宗門であるから別に本尊を立てる必要もない。

要領さえ得れば丹霞(たんか)の如く木像を焼いて臀部(でんぶ)を暖めても善いこととなる。

 

然らば、禅宗には本尊はないかと云うに、決してないわけではない。

実地に禅宗の各寺院について見るならば、何(いず)れも本堂等には立派な本尊を安置している。

無量寿仏もあれば地蔵もある。

弁天、観音、稲荷、半僧坊などまで祀っていることは、ほぼ真言宗と同じである。

 

併(しか)し大抵本山とか大寺院の本堂には釈尊を祀っている。

曹洞宗ではいろいろの仏像を祀っているけれども、表向きには釈尊を本尊ときめている。

 

黄檗宗に至っては祀っている本尊は大抵釈尊であるけれども、その朝夕の念経においては、南無阿弥陀仏(ナムオミトフ)が十声百声唱えられる前に、立派なる阿弥陀讃が鳴物入りの諷吟(ふうぎん)で謡(うた)われる。

その情態から見ると、純然たる支那の念仏宗である。その念仏を高調した結果、念仏独湛(どくたん)を出した程である。

されば黄檗宗の本尊は二つある。本堂の本尊は釈尊であって、安心の本尊は無量寿仏である。

これ明末の念禅を受け継いでそのまま輸入したものであったからである。

 

近頃臨済宗の学者中にも無量寿仏を本尊として、称名念仏する人が出た。

かの宗内にも如何に本尊問題に苦しんでいる人があるかが解かる。

 

しかし禅宗本来の立場から云えば、畢竟(ひっきょう)外界に安置する本尊は何であろうと差支(さしつかえ)はない。

これは他をして拝ましめる為の本尊であって、真実の本尊は自己心性の古仏である。

されば吾人は釈尊より一器の水を一器に瀉(くだ)すが如く、代々伝えて来た所の正見仏性の覚悟を得さえすれば、それが本尊の確立である。

然らば禅宗に言う所の確実なる伝灯の証は、何に依て知られるかと云うに、それは付法偈(ふほうげ)に依て、仏々祖々の相伝が知られるのである。

 

然るにこの付法偈ぐらい根本的に怪しいものはないのである。

支那に達磨が来たと云われてから稍(やや)確実なものとなったけれども、過去七仏の付法偈と、西天の二十七祖までの付法偈とは、同一の支那人の手に依て造られたものである事は、同調同義の単純なる空義の七言或は五言の四句一偈で何(いず)れも同じようなことを繰返していることに依ても知られる。

かの景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)の始(はじめ)には、金華の善慧大士が松山の頂に上って、七仏引を感じた。維摩を前にして後を接し、今の撰述にて七仏より下れることを断ずとあって、その後に七仏の名と、付法偈とを挙げている。

これに依ても七仏の付法偈は、善慧大士の感得作出であることがわかる。

それらと同性同調の二十七祖付法偈は、或は同大士の作であったかも知れぬ。

何(いず)れも原書等の確実なる書にはないものである。

 

且つまた霊山会上における拈華微笑(ねんげみしょう)の如き劇的筋書(すじがき)は、嘗(かつ)て世に顕われた事のない怪経、梵天王問仏決疑経中に誌(しる)されてあるのを、王荊公が宮中の秘書蔵内で見たという話に基(もとづ)いたものである。

権証となり得べき経律論の何(いず)れにも、また歴史にも出ていない一種の作話(つくりばなし)である。

 

勿論涅槃経によれば、釈尊が無上正法を大迦葉に付属せられた事は事実である。

併(しか)しながら禅宗相伝の如き拈華微笑などという劇的行為に依て、付法せられたのではない。

仏が祇園精舎において大迦葉に半座を分ち給いて、「汝は我と斉(ひと)しき者である。今より総ての大依止となれ」と仰せられた。

その後涅槃会上において釈尊は言われた。「無上の正法を以て悉(ことごと)く迦葉に付属す。彼は汝等の為に大依止となる」と大衆の中で宣言せられた。

これが付法の形式であった。

 

仏が華をとって無言のまま少時大衆に向って居(お)ったなどという奇行は、支那人の好奇心を満足せしめる一種の作話である。

かかる作話に依て、遂に教外別伝不立文字を根拠とし、常識はずれた奇矯(ききょう)の行動を以て、世を瞞着(まんちゃく)する空想漢を多く生ぜしめたことも、この作話が然らしめたものである。

 

かくの如き無根拠なる伝灯を以て、一器の水を一器に瀉(くだ)すが如しなどとは、以ての外の事である。

自己の生母を蹴殺した黄檗、自分の子を料理して食ったと云われる大灯、仏徒尊崇の本尊たる木仏を焼て臀部を焙(あぶ)った丹霞の如き、また猫を平気で斬った南泉の如きは、禅的空間に耽(ふ)ける者を歓(よろこ)ばすの外、常識には非倫非徳天魔の行為と云うべき事さえ生じせしめたのである。

 

かくも放漫に流れ易い禅宗は、恐れ多くも朝権を私(わたくし)して、天下を自由にした将軍どもには、誠に都合の好い宗教であって、彼等の時代に最も盛んに行われたものである。

且つまた人を人とも思わず、義を義ともせず仏戒などを眼中に置かない横着者には、実に適当な宗旨となっている。

 

今や天下の宗家にして、仏陀正見の戒律を小乗と卑しめて、飲酒弄淫を以て大乗の無着行とせざる漢子は幾人がある。

世を欺く悪魔よ。提唱講経棒喝を以て善知識を擬似する天魔よ。

汝等にもまた死後あることを知らざるか、汝等の心中に宿る本尊は、名利娯楽を求むる欲念の結晶に非ざるか。

自ら親しく点検し来らば、遂に真正の本尊を発見する事が出来るであろう。

 

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