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第34 - 真言宗の本尊論批判

真言宗の本尊は法身(ほっしん)毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ)である。

【然るに】これは表向きの言い草ぐらいのものであって、実際に同宗の各寺院に祀っている本尊は、実に雑駁(ざっぱく)なものであって、何が中心の本尊であるか、一定するに苦しむ位のものである。

 

不動を本尊とするもあれば、毘沙門を本尊とするもある。

或は聖天、或は大黒、または観音、または愛染、薬師、無量寿、阿閦(あしゅく)、宝積(ほうしゃく)、その他文殊、普賢、地蔵、虚空蔵などに至り、尚(な)おその上に同宗中最も勢力ある大師教会は、弘法大師を本尊とするに努めている。

 

そうして毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)即ち大日如来は、宗義構成上に説明せられる本尊であって、実際には殆(ほと)んど押し込められたようなもので、本尊として何の勢力も認められていない。

ただ真言宗は他宗より大に勝(すぐ)れていると、自ら唱道する所以のものは、それは大日如来の法身説法で、即身成仏が真言密教の力に依て、出来ると主張する処にある。

 

然るに真言宗の僧侶にして、一人でも三密相応して、真正に真言を唱え得るものがあるであろうか。

大抵は三密はさておき、因襲的誤音で以て、真言を虚言のみで発している。

その虚言に依て真言秘密の力がどうして顕われるであろうか。

 

特に大日如来の法身説法と云うことは、同宗内にすら異説があって一つに確定していないものである。

同宗の新義派は加持身説法を主張している。

また同じ真言密教でも西蔵の新教派は、応身(おうじん)説法を主張している。

 

それ等の各主張は何(いず)れも深い根拠を持っている。

かりに法身が説法したとした所で、それが何故に尊いのか。

正当に公平に見来れば法報応の三身は三身即一の同一であって、何(いず)れを尊いとし何れを卑(いやし)いとも出来ないものである。

理を最勝とすれば法身が一番尊となろう。

徳を最勝とすれば報身(ほうじん)が一番尊くなる。

併(しか)し用(ゆう)即ち実行実現を最勝とすれば応身が一番尊くなるのである。

 

かくの如く法報応の三身は何(いず)れもその特勝があって、決してその間に勝劣を分(わか)つべきものではないのである。

然るに法身を尊いかのように見たのは、天台一流の妄判に禍(わざわ)いせられた僻見(びゃっけん)である。

 

そうして真言宗の人々が自ら尊しとする法身大日如来は、書籍や講演壇上の本尊であって、実際の本尊としては前述の如く、仏教中最も雑駁なものであって、中には淫祠とも云うべき聖天の如きものすらあるのである。

現今同宗僧侶の実際は、立川流(たちかわりゅう)を内密事実上に讃歎実行している者が多数であるから、淫祠盲信の隆盛なることは各宗中第一位を占むるであろう。

そうしてその国家国民に対して及ぼす迷信と、虚偽生活の害毒に至っては、天理教と同じく実に戦慄すべきものがある。

 

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