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第33 - 仏本尊論批判

釈迦牟尼仏を本尊とする説は、仏教の本義に一致するのである。

かの元政(げんせい)上人が釈迦如来一尊を本尊とせられたことの如きは、全く法華経の神力品と一致する正当の主張である。

また日蓮上人御自身の秘密本尊は、一生御身を離されなかった釈尊の聖像であるということは事実である。

 

そうして現代同宗中教理に覚めた青年学生諸子の中で、神力品にある応身の釈尊を本尊とすることを合理至当として、窃(ひそか)に合同主張している者が随分あると聞いて居る。

ただ当局の極刑を恐れて公言しないだけだと云う。

最もな事であると思う。

 

但し一般に日蓮宗の各派において、仏本尊と云う時の仏は前に挙げた所の歴史上、今より二千四百八十一年前に現われた応身の釈尊を云うのではなくて、久遠塵点劫(くおんじんてんごう)の古昔(こせき)において既に成仏せられた釈迦牟尼仏とするのである。

この主張者の説に随(したが)うと、「歴史的の仏陀は化仏であって、本尊とするに足らない。真の本尊として帰敬すべき最上のものは、久遠塵点劫の昔に成仏せられた、本仏たる釈尊を云うのである。これ一切蔵経中法華経の無量寿品にのみ明かにされた事で、最も尊い本仏を以て本尊とするのである。」

そうしてこれは日蓮宗の誇りとすべき所として、同宗徒が「吾等の本尊は久遠の本仏である。娑婆の化仏とは訳が違う。」と満分の誇りを以て揚言している。

 

然るに時の古今で価値に相違を来(きた)すものは、骨董品の類である。

仏陀は三世に通じて、三世に束縛せられない自由了解の持主である。

仏自身から時の古今について価値を分(わか)つようなことはしない。時間は本来無始であり無終である。この無始無終の時間中には、久遠塵点劫の昔も今も、その価値は同一である。

現在の一刹那を将来久遠塵点劫を経た後から見れば、現在の刹那が久遠塵点劫の昔となるのである。

 

久遠が幾(いく)つ集ってもやはり時間の一部であってその間に高下を付すべき理由はない。

何故に釈尊が久遠塵点劫の古昔を説いたかと云えば、ただ聴衆の疑念を晴らすために、自身の化度の久しい以前からであったと示されたに止(とどま)る。

 

然るにそれが古いから尊崇すべきであると云えば、それと同様に歴史的仏陀は新しく我等に近く現われた仏であるから、尊崇すべきであるとも云える。

古いのを尊ぶのと新しいのを尊ぶのとは、何(いず)れもその人々の嗜好であるから、何(ど)れを何(ど)れとも云うことが出来ない。

 また久遠の仏のあったことを知ることの出来たのは、新しい仏の説明によることであるから、古い仏の尊さと同じように、新しい仏も尊いのである。

 

このような次第であるから、久遠の仏を特に尊いものとして、本尊とすることの無意義なことは判然としたであろう。

 

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