目次

第28 - 康僧鎧訳無量寿経の真相

支那においては無量寿経は十二訳あった。

その中で現在遺(のこ)っているものは五訳あって、時代順にすれば以下の如くである。

漢、仏説無量清浄平等覚経 後漢月氏国三蔵・支婁迦讖 訳 一部頁数四四
呉、仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経 呉月氏国居士・支謙 訳 同 三九
魏、仏説無量寿経 魏・康僧鎧 訳 同 三六
唐、大宝積経・無量寿如来会 大唐三蔵・菩提流支 奉詔訳 同 二三
宋、仏説大乗無量寿荘厳経 西天三蔵明教大師・法賢 奉詔訳 同 二〇

 

このように五訳存する中で、古来支那及び我国において、最も広く用いられたる訳書は魏の康僧鎧(こうそうがい)の訳したものである。

我国の浄土門一般の権証として用いられているのもこの書である。

また前節に説明した第十八願文即ち念仏往生の文のあるのもこの書である。

さればこの訳書の真相について知る必要がある。

 

さてこの訳書は五訳中、漢文として最も優秀なるもので、支婁迦讖(しるかせん)訳の冗漫なるに似ず、また支謙(しけん)訳の要義省略にも似ないで、甚だ要を得たものである。

例せば康僧鎧の訳はその五悪段に至ては固(もと)より支婁迦讖訳のを用いたのであるけれども、その冗長な処を削り取って簡明にしている。

また支謙は南無阿弥陀庾枳仏陀耶を、南無阿弥陀仏という未成語片言に音写して、その意義を全く滅却しているけれども、康訳は無量寿仏に礼し上(たてまつ)るとして原義を持っている。

【然れども】特に康訳が支那日本に最も広く行われた所以は、堕落時代の横着な人間の実利的欲望に、最も適合し得る第十八願文の、存在していることによるのである。

 

その願文にある十念の念を称名念仏の称と解釈して、浄土宗が出で、至心信楽の信念と解釈して真宗が生れたのである。

そうして行徳回向の願文を故意に別立せしめて、称名念仏のみで或は他力の信念獲得のみで、極楽往生が出来るかの如く、妄想する者を多く生ぜしめたものである。

その妄想誤解の最も強い人々が浄土門各宗各派の宗祖となった訳である。

即ち梵文の第十九願文の前半を第二十の願となし、その後半を第十八の願として浄土往生に最も肝要なる原因行徳回向を別にして、念仏のみで往生なし得る無条件救済絶対他力などという反仏教を盛大ならしめる原因となったものである。

心という原語を念と訳したのと、願文を二分しただけで大変な誤解と害悪とを生ぜしめたものである。

 

さて前記五訳の内容は、何(いず)れも無量寿仏の立誓、浄土の建立荘厳、極楽往生等を説いたものであるけれども、全くその内容の同一であるものが一つもない。

各本多少の相異があって、原本が同一であったと思われないほどである。

併(しか)し初めの三本は五悪段を誌(しる)した所だけは、多少の広略はあってもほぼ同一である。

これは最初支婁迦讖が訳した時に、彼か、彼の筆授者か、或は潤文師が、その時代の支那人の現世に対する教訓的経典を欲する切望に対して、新(あらた)に作出して経中に挿入したものと見える。

何となれば五段悪及びその前行序文は、訳文的句調が少しもないのみか、漢文の本質を表し、またその顕表的語句の方法も、漢文一流の文格を顕わし、その意義も純仏教思想でない、道教思想まで混入している事に依て、支那人の偽作と言うことが出来るのである。

 

その道教の思想とは以下の如くである。

またここに挙げた例文に依て、如何に漢文の本質を表しているかも見るべきである。

この付点【下線】の文が三界とか因縁とか、因果応報という語で表わされるべき前文の場合において、天地とか自然の道とか神の殃罰とか天心とか、甚しきは日月照識し、神明が記取し、諸神が摂録するなどという、道教思想そのままを表せるを見る。

 

また本経の全体思想は極楽浄土を讃歎(さんたん)して、この土の衆生をして極楽浄土を願わしめる事を専らとしているものである。

然るに五悪段の文中にはこの思想に反対した文句がある。

それはこの娑婆世界は修徳の場所としては、極楽浄土よりも遥かに勝れて居ることを示している。

次に挙げる文がそれである。

この文は漢訳を真似した呉訳と魏訳とにあるのみで、他の原書や蔵訳や唐訳宋訳にもないのである。

 

元来極楽浄土を讃歎し浄土往生を専(もっぱ)ら勧奨(かんしょう)するこの経において、かかる文句のないのが当然である。

然るに五悪段の作者は、現世における修徳を高調する余りに、知らず識らず浄土往生讃歎に反対の思想を誌(しる)したものであろう。

 

かくの如く何(いず)れの点より見るも五悪段及びその前序文は、支那人の偽作して挿入したものとするより外に道はないのである。

その上この康僧鎧訳無量寿経の四分の一を占めている、この五悪段と前序文とは、現存の原経梵典にもなければ、西蔵訳にもなく、唐訳宋訳にもないのである。

それ故にこの名文であり、大文章である五悪段は全く支那人の偽作挿入と確言することが出来るのである。

 

また同じ訳書には経の序文中に、菩薩の名と徳とを記する、一千余の文字が入れられてある。

これも漢文として名文であるけれども、梵文蔵訳は勿論冗長なる支婁迦讖の訳にすらないものである。

かくの如く挿入改造を敢(あえ)てする康僧鎧の訳は信ずることの出来ないことは云うまでもない。

 

かかる訳書中にある故意に別立して無条件なる念仏往生とした第十八願の如きは、毫も信ずべき根拠のないものである。

かく半翻訳半偽造した経典を根拠とする浄土門に属する各宗派は、固(もと)より仏教と認むべきものではない。

偽仏教、非仏教と云うべきである。

 

目次 inserted by FC2 system