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第27 - 願文中称名念仏往生の文句がない

古来我国において十念と云えば、十度念仏することと思い、念仏と云えば称名することと思い、南無阿弥陀仏と称(とな)うることが、即ち念仏とも称名とも云われて、一般に通じているのである。

これ善導が十念を十称と解釈して念を称したことから起ったのである。

 

されば南條師の梵文和訳の十念発起相続も十たび念仏を唱うることとなるのであって、外の意義ではないのである。

このように解釈し得(うる)べき筈(はず)である所の西蔵訳の同じ願文を和訳して見よう。

第十九願の文に曰く、

この西蔵訳によると十念は念仏の念でなくて、かの浄土に生れようと願う心の生ずる事を、十度する事である。この西蔵訳の如く、心を起す、或は心を生ずと訳する時は、毫も念仏などと誤ることもなく、また念仏を称名する意義に取るなどの大誤謬は起らなかったのである。

 

併(しか)し西蔵訳にどのようにあっても、原書なる梵語にはどのようにあるかを決定しない限り、この主張を肯定する訳(わけ)には行かぬ。

そこでそれに関する原文と訳と対照して挙げて見よう。

南條師はこれを、十念発起相続を以て、と訳して居られるけれども、この訳は康僧鎧と菩提流支の訳を踏襲せられたものであって、チッタを念と訳したのは適訳とは思われない。

何故ならばチッタは古来ボーディ・チッタ即ち菩提心などと熟字して、念と訳するは異例である。特に十念とする時は十度念仏を称(とな)えることであると習慣的に思って居る人々に対しては、全く誤らしめ易い訳語である。

 

然るに原文の表わす如くに、西蔵語に訳したるその意義によれば、極楽に往生したいという心を十度生じて相続する事であるから、念仏称名の念と間違いようはないのである。

なお支那訳においても支婁迦讖(しるかせん)と支謙(しけん)とは心と訳し、法賢(ほうけん)は菩提心を発(ほっ)しと訳していることを見ると、これ等の諸師も西蔵訳と同じく心と訳して、原語と一致しているのを見るべきである。

 

以上の論述に依て念仏往生を宣揚する第十八の本願という文句もなければ、また四十八願中何(いず)れにも称名念仏往生を説いた所がないのに、然るに今まで我国の津々浦々まで、能くこの無根無実の虚偽の事が行われたものである。

これはただ彼等の無法なる深い欲望を満足させるという所から、広く世に行われたものであろう。

正当確実なる国民発達のためには誠に悲しむべき一大事実である。

 

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