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第26 - 第十八本願文の無根無実

仮りに念仏門の信者等は無意義なる六字の名号を廃して、意義ある十字の名号、南無 阿弥陀庾枳 仏陀耶(ナモーミタユス ブッダハーヤ)と至心(ししん)に信楽して称名したならば、西方極楽世界に往生することが出来るであろうか。

それは全く望みないことである。

何故なら、その往生を保証する所の第十八の本願文は、怪しい翻訳の一書を除いては、原書である梵典の無量寿経には、回向善根念仏往生を第十九願に誌(しる)せる外に、康僧鎧(こうそうがい)訳の如き念仏称名或は信心決定を極楽往生の原因の如くに解釈し得る、調法なる独立したる願文はないのである。

 

凡(およ)そ念仏門中最も勢力を有する真宗においては、この康僧鎧訳の第十八本願の文が基礎となって立て居るのである。

故に慎重厳密にこの問題については研究せねばならぬのである。

 

まず初めに真宗成立の基礎である康僧鎧訳の第十八本願の正文を挙げて比較の便宜に供する。

この訳文は真宗独特の解釈に随(したが)えば、絶対他力の大精神を顕(あらわ)した願文であって、念仏称名の易行(いぎょう)で極楽往生決定の大安心を吾人に与えられた、いわゆる念仏往生保証の本願の文と云うのである。

 

ここに仏より与えられたる信心を本として、往生するという信心為本(しんじんいほん)主義と、念仏の易行で往生するという称名正因(しょうみょうしょういん)の主張も生ずる。

何(いず)れにしても念仏往生ということはこの願文によって保証せられる。

【然し】このような都合の好い願文が、梵文の第十八願には全くないのであって、同第十九願には諸(もろもろ)の善根を回向して、極楽に生まれんことを欲する念を起すこと、少なくとも十たび念を発起相続すればその極楽浄土に生まれしめるという願文があるだけで、念仏称名して往生さすという文は何処にもないのである。

 

以下南條文雄師訳の仏説無量寿経梵文和訳の第十九の願文を挙げよう。

これは先にも述べた如く康僧鎧訳の第十八の願文に似た所もあるもので、この第十九願文から康僧鎧のは後半分を別立せしめて、念仏易行の外全く無条件で極楽往生が出来るような文句に改作したものと見るべきである。

南條師の梵文和訳は以下の如くである。

 

前記の如く後半分の極楽往生の原因は、前半分の浄土に生れんとする念を起すことと、諸善根を回向することとを以てしている。

そうして十念発起相続は、極楽浄土へ往生せんと欲する念を十度発起して相続することであって、十念は十度念仏称名する意味ではないのである。

またこの願文は康僧鎧の第十八願文の如く、肝心要めの諸善根回向の文で極楽往生の原因となる前半を第二十の願として別立せしめ、次で至心信楽十念が往生の原因となるような後半の文のみを第十八の本願として別立させた処から、無条件なる絶対他力救済などという非仏教的魔説も生じたのである。

その上称名念仏が往生極楽の原因となる文句は、原書梵典においては四十八願中何処にもないのである。

故に康僧鎧の訳にある第十八の願文は、無根無実であると云う所以である。

 

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