前節において阿弥陀仏は無量仏の義であって、無量寿仏とならざることを明かにした。
けれども或は言う者があろう。
阿弥陀仏と言えば梵語では無量仏であろうけれども、一心に南無阿弥陀仏と唱うれば、如何なる下根の女人も悪人も、極楽往生疑いなしと御文にある。
また観経玄義には、南(ナ)は帰で、無(ム)は命で、阿(ア)は無で、弥(ミ)は量で、陀(ダ)は寿で、仏(ブツ)は覚であるから、南無阿弥陀仏は無量寿仏の義である。
また御和讃にも帰命無量寿如来とあるではないかと。
このような弁解は、七世紀も古代の殆んど原語研究をしなかった時代の、一文不知の尼入道を承認さす事は出来たであろう。
然し南無には帰命の意義はなくただ礼拝するの義で、阿弥陀には無量寿の義はない。後に示す如く無量の義のみである。
けれども猶(な)おこの六字にあり難い意義ある如くに渇仰(かつごう)する者が多いのであるから、ここに南無阿弥陀仏という語を、原語の意義と文法的メスとを以て、解剖することとする。
南無(礼拝す) | 阿弥陀(無量) | 仏(覚者) |
namas (動詞) | amita (無格の基語) | Buddha (無格の基語) |
文法上、南無 namasという動詞が、語の始(はじめ)に現れる時は、必ず賓辞(ひんじ)の終(おわり)に第四格即ち為格の語尾アーヤを添えて結ばねば、全く語の意義をなさぬものである。
南無と始まればその語句の終わりを阿耶(アーヤ)で結ぶことは、梵語文法上古来一定の金則である。
それ故に南無阿弥陀仏と言ったのみでは、以下に表示する如く何の意味もなさぬものである。
この対照の如く、南無は礼拝すで、阿弥陀仏は無量仏とあるので、無量仏が誰かに礼拝するのか、誰かが無量仏に礼拝するのかと云うに、これは未成語であるから、その何(いず)れの意味もなさない。
全く無意義の片言である。
かかる無意義の片言を以て、極楽往生が出来るなどと信じた古昔(こせき)の高僧善知識は、梵語については実に文字通りに、一文不知の尼入道に等しき憐(あわれ)むべき人々であった。
これを原語において文法上意義ある語とするには、以下の如き語形とするのである。
かくの如く文法的に意義あるように構成しても、なお且つ彼等の信ずる如き無量寿仏に礼拝する事とはならないのである。
無量仏即ち多数の仏に礼拝すという意義より外にないのである。
もし西方極楽世界の教主である無量寿仏に礼拝すという義を、梵語で表すならば、以下の如くである。
この十字を備えなければ、念仏者流が期待する如き意味は表れないのである。
如何に南無阿弥陀仏という語の、全く無意義の片言であるかが判明したであろう。
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