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第24 - 阿弥陀仏は本尊とならない

阿弥陀仏とは浄土門一派の人々の言う所によれば、西方極楽世界の教主無量寿仏と言う特別の如来を言うのであると説いている。

果して彼等の唱道する如くであろうか。

 

原語を調査して見ると阿弥陀仏とは梵語にAmitā Buddhaで、訳は無量仏である。

即ち十方三世の無量無数の仏陀を意味する原語であって、いわゆる西方極楽世界の教主である無量寿仏とはならぬのである。

無量寿仏なれば、原語にAmitāyus Buddha アミターユス・ブッダであって、無量光仏なればAmitābha Buddha アミターバ・ブッダである。

阿弥陀仏は、無量無数の仏であるから、ただ一を基数とする本尊とはならぬのである。

 

或は言う者があろう。

元来阿弥陀という語には無量寿、または無量光の意義が含まれて居るのであると。

或はまた言う者があろう。

ユス/寿、或はバ/光の語を省略して、簡単にしたもので、やはり阿弥陀という語は、無量寿または無量光の意義であると。

 

このような強弁は全くサンスクリット語を知らない人々か、或は宗見に囚われた病的思想者の間では通用するであろう。

併(しか)しながら少しでも梵語を正しく知った者には、阿弥陀仏と云えば、言下(げんか)に無量仏と知覚する。

何程推理穿鑿(せんさく)しても、阿弥陀と云って無量寿仏とはならぬのである。

故に一仏でない阿弥陀仏は断乎(だんこ)として本尊とならぬと云う所以である。

 

されば本尊として無意義なる阿弥陀仏という語を捨てて、極楽世界の教主として意義ある無量寿仏の語を用いてこの論題を判じて見よう。

無量寿仏はこの娑婆世界より西方に、十万億の世界を隔てた処にある極楽世界の教主であって、この娑婆世界の本尊ではない。

即ち他国土の精神的統轄者であって、この国土の法王ではない。

故にこの国土の住民の本尊とすることは出来ぬのである。

 

かく言えば無量寿仏も釈迦牟尼仏も同一の仏であるから、この国土住民の本尊とすることが出来るという者もあろう。

成程釈尊と無量寿仏とはその仏たり如来たる点においては同一であることは、恰(あたか)も我国の天皇陛下と、英国の皇帝陛下とは、その皇帝たる点においては同一であるが如きものである。

その皇帝ということの同一なるを以て、英国の皇帝を以て、我国の天皇陛下とすることの出来ない如く、西方極楽世界の本尊である無量寿仏を以て、この娑婆世界の本尊とすることは、全く乱暴の沙汰であるとせねばならぬ。

故に吾人はこの国土においては、無量寿仏を本尊とすることは、到底出来ないことであると説く所以である。

 

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