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第23 - 諸種本尊成立の弁護論とその批判

然れども現今我国における宗派仏教は、その不可能の事を敢(あえ)て行って恬(てん)として省みないのである。

 

否(い)な却(かえっ)てこれを弁護する者は曰く、釈迦と云うも阿弥陀と云うも皆同体の仏であって、菩薩も明王も仏の化現であって見れば、何(いず)れを本尊とするも差支はない。「釈迦、阿弥陀、地蔵、薬師と名はあれど同じ心の仏なりけり。」とある通りである。

かくの如き弁護は古来多数の高僧善知識に依ても説明せられた所であるけれども、これは実に真性の差別を没却した、味噌糞同一論者の邪見である。

もし論者の如く言うならば、法身本仏の立場より観れば、猫も杓子も仏の実相であり、犬や馬も法身の所現であって見れば、皆一々本尊とすることが出来ると云うこととなる。

 

人間の理想的目標となる本尊が、かくの如き雑駁(ざっぱく)となり得る理論的根拠にあってはならぬ。

事実上信心の対象となる本尊が、融即(ゆうそく)の論理を乱用した弁護に依て構成せられるものでは、全く不適当で且つ非真理である。

鬼子母神と釈迦牟尼如来とは、その生来の歴史も、意志の発動も、智徳の修積も、またその到達したる位地も、全然異なる人格である。それを妄断的に振当てた本地垂迹説などを以て、鬼子母神も釈迦仏陀も同一であるなどと云うに至っては沙汰の限りで、仏説を悪用して、一種の利益を壟断(ろうだん)せんとする魔説と云うより外にないのである。

 

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