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第22 - 本尊としての仏陀

仏宝と言えば、仏陀世尊の実相を明示すれば、それで異論のない筈である。

 

併(しか)し純理上仏陀を本尊として見る時は、実際には諸種の仏陀や、諸菩薩や種々の明王などに至るまで、厳然たる本尊として存在し、また尊信せられていることを見るのである。

例せば、或宗派においては阿弥陀仏を本尊とし他の宗派においては大日如来を本尊とし、また或宗派においては経典の題目を本尊とするものもある。

或は利益を得る事を専らとする寺院においては、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩等を本尊として祀(ま)つるものもある。

また一堂の本尊としては、弘法大師、見真大師、立正大師等の僧を祀つるものもある。

甚だしきに至ては、天部の不動明王や、大聖歓喜天や、弁財天女や、帝釈天王や、大黒天や、毘沙門天王や、果ては鬼子母神や、加藤清正や、狐狸の類に至るまで本尊として、迷信者流の賽銭を集めるものがある。

かくの如きは一体仏教の真実本尊を表わしているものであろうか。

 

本来宗教は帰一の信を要するものである。

仏教において南無仏陀那(ナムブッダハーヤ)と云う時には、十号具足万徳円満の一仏に向って、礼拝する義を表すものであって、決して諸仏諸菩薩諸明王でないことは、その語の為格が単数であることに依ても、文法上より証明せられているのである。

また純理論上より見ても、一宗教本尊が種々異様なる人格の表現であり得ることは、到底出来ないことである。

 

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