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第20 - 一切蔵経を依経とする理由

ここに明かにせねばならぬことは、何故に一二の経典を取らずして、一切蔵経を以て依経とするかということである。

 

凡(およ)そ所依の経典を簡単にするために、一二の経典を選定する時は、やはり古来用いた判釈を便宜とするであろう。そうするならばまた古来の過誤を再びせねばならぬこととなる。そのような事は歴史上及び梵語学上並(ならび)に教理学上等の研究が大に進んでいる今日、到底なし得らるべきことではない。

且つそのような事を強いて為し遂げた所で、偏狭頑迷なる僻見(びゃっけん)的害毒を世に流すのみである。

かりに判教によらずに便宜上或一二の経典を所依とするとも、自然それのみを尊重して、他の経典を軽視することとなるであろう。それでまた判教に似た害毒が生じるであろう。

 

元来仏教は諸種異様の人々の欲望に添い、また疑念をも氷解するものであるから、それ等一々の要求を満たすために、八万四千種々無量の法門を具有する一切蔵経が存在するのであるから、それを所依とすることは当然の事である。

 

ただ一切蔵経を読破する精力なき人々のためには、便宜上

のが適当であろう。

これ便宜上一応の区別であって、固(もと)よりこれ等に決定した訳ではない。

勿論一切蔵経中偽経を除いては、皆平等に所依の経典となるのであるから、その中で自己に適したものを選択すべきである。

但しここに挙げた経書は宗派的色彩が少くて、比較的公平に仏教を知り得るに近いから挙げたまでである。

 

以上述べた所に依て、仏教所依の経典は、一切蔵経でなければならぬことは、明瞭になったけれどもこれは仏教における法は、何に依て明(あきら)かにせられるかという事についての資料を示したのみであって、依然として仏教全体の要素は何であるかという問題は残っているのである。

 

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