目次

第2 - 四分五裂して自宗を最尊とする原因

これらの中最初の原因は、如来入滅の後摩訶迦葉波(マハーカーシャパ)尊者が上座となって阿難陀(アーナンダ)が経蔵を誦出(しょうしゅつ)し、優波離(ウパリ)尊者が律蔵を説述し、大迦葉(マハーカーシャパ)は自ら論蔵を述べられた。それ等を五百の阿羅漢(アラハン)等が証明した。これが第一結集とも上座部の結集とも云って、世に名高い事歴である。

上座部の結集を始めた後に王舎城に到着した一万の阿羅漢は、婆修婆斯(バスバシ)を上首として共に上座部の外に集って、経律論の三蔵を結集した。これが大衆部の結集である。

 

この外に優婆索迦(ウパーサカ)大衆即ち百万の仏子が菩薩乗の三蔵を結集したことが、西蔵(チベット)伝のヤーセルとパクサム・ジョンサンの二歴史に誌されて居る。

「如来の滅後王舎城の南方毘摩羅莎発幹山(ヴィマラ スワバハーヴ ギリ/清浄自性山)に、百万の仏子来集して曼殊師利(マンジュシリー)は論蔵を、弥勒菩薩は律蔵を、普賢菩薩は経蔵を結集したが、これが大乗の三蔵である。この通りに大乗仏典は仏子菩薩に依て結集せられ、小乗三蔵は声聞の弟子に依て結集せられたものであった。」(ヤーセル、三七八丁、パクサム・ジョンサン四七頁)

 

後に説明する如く如来の所説は、一味の仏乗であって、出家の弟子も在家の弟子も、それ等の覚(さと)る所は、同一真理の四諦であった。但し日常の行持は在家と出家との間に異なる点があったけれども、その見る所奉ずる所は同一であったことは、同じ僧伽(サンガハ/和合衆)の名の下に統一せられたことによっても知られる。然るに仏滅後この同一真理同一団体において、三処に三大衆が別々に結集したことが、後来仏教が分裂する最初の原因をなしたものであった。

 

目次 inserted by FC2 system