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第19 - 仏教所依の経典

如何(いか)なる経典が仏教所依の経典であるかと云えば、仏陀所説の一切蔵経と、その蔵経の主旨を正しく布衍し解釈して、仏の真説たる聖教の性質を備えた所の総べての経典である。

 

かく云えば或人は云うであろう。

一切蔵経は数千巻以上の浩瀚(こうかん)なものであるから、それに従事する専門家でも容易に読破し得ないものである。まして普通一般の信者にはその読了は到底望み難いことである。

そのような大部なものを依経とすることは、到底言うべくして行われない事であると。

 

然れども仏世尊の主旨は依経である限り皆読まねばならぬと云うことはない。

信者としての資格は読不読了解不了解に拘(こだ)わらず、仏法僧の三宝を信ずるだけで善いのである。

その上に五戒を完全に持てば、優婆索迦(ウパーサカ)、優婆私迦(ウパーシカ)として、四衆(ししゅ)の中なる僧伽(そうぎゃ)である。

 

そうして比丘、比丘尼である僧伽の資格においても、これらの依経を総べて読破しなければ、比丘僧としての資格がない訳ではない。

比丘僧として要すべき資格は、具足戒即ち二百五十の戒律を完全に持って解脱の目的に進む所の実修をなすにある。

かりに如何(いか)ほど学問があっても禅定があっても、具足戒を持たなければ、比丘僧としての資格はないのである。

もしかりに具足戒を持たずに、学問あり禅定あるに任せて、法衣を着し比丘形をなして世に立つ者があるとすれば、それは精神的に世を欺く所の詐欺師である。決して比丘僧ではないのである。

 

固(もと)より比丘僧としてその具足戒の如何(いか)なるものなるかを知るためには、戒経律部の書を読習せねばならぬ。これは比丘として欠く事の出来ない、主なる資格の一つである。

また如何に正しく禅定を行い、平常に心得べきかを知るためには多少の経典を読誦せねばならぬ。

また仏教の哲理的組織の智慧を得るためには、多少の論部を読まねばならぬ。

この後の二は比丘僧として知らねばならぬ必要事である。

 

以上比丘僧として多少の経律論を読誦せねばならぬけれども、一切蔵経を読まねば、比丘僧の資格がないという訳ではないことは、以上の説明によって明らかになったと思う。

 

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