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第16 - 仏陀はただ一乗法を説かれたる証説

以上挙げた典拠によって、如来は阿含経においてその経を以て大乗、無上法、最尊の仏道と説かれたことは明白である。

かかる一乗法を卑(いや)しめて下位に置き、同じ一仏乗なる華厳や法華を最上位に置いて、妄(みだ)りに高下を分(わか)つことは、固(もと)より諸方面の研究が不徹底な所より然らしめたこととは云え余りに無意義で且つ根拠のないことである。

 

元来仏教は法華経に説かれた所の、唯有一乗法(ゆいういちじょうほう)、無二亦無三(むにやくむさん)の金言は、法華会上より見て真理なるのみでなく、阿含会上より見てもまた同じく真理であって一切の経典にはただ一仏乗あるのみで、声聞や縁覚や菩薩の三乗は、ただこの一仏乗の内分であって、何(いず)れも皆徹底すれば仏となるのである。如来となるのである。

それ故に究竟(くっきょう)すれば大乗と小乗との二乗もなく、また声聞と縁覚と菩薩との三乗もなく、ただ仏の一乗のみあると説かれた所以(ゆえん)である。

 

けれども一切蔵経を権実と分(わか)つ天台の判教を以て正当とする者は言うであろう。

如来は方便品にただこの一事のみ実にして余の二は真実でない、権(かり)のものであるとして居られる。この聖文によって仏自らは、かの二乗を以て権(かり)のものとしまた劣のものとして居られる。故に前記の如き三乗無勝劣の説は成立しないと論破するであろう。

 

なる程 唯(タ)ダ此(コ)ノ一事ノミ実ニシテ 余二ノ則ハ 真ニ非ズ という句は、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)訳の法華経とそれを真似た添品法華経とに出て居るけれども、漢訳の正法華経にもなければ西蔵訳にもないのである。

その文句に相当して居る蔵文和訳は

この義は什訳と全く違っている。

蔵訳の義は仏陀の所作は成仏一乗であって余の二乗はない。本来仏乗を仮りに方便して二或は三に分(わか)ったまでである。

 

什訳に随(したが)えば一仏乗のみが実であって、余の二は非真で権(かり)であるとする。

然るに法華経は三乗即一乗一乗即三乗の義を明(あきら)かにする為に方便品には唯有一乗法無二亦無三と云い、信解品には 一乗ノ道ニ於テ 宜(ヨロシ)キニ随(シタガイ)テ 三ト説ク と示して居られる。

されば元来三乗を離れて一乗もなく、一乗を離れて三乗もないのであるから、一乗が真実なれば三乗も真実である。もし二乗三乗にして非真なれば一乗も虚妄となる。本来一乗が真乗であるから二乗も真実で三乗も成仏道を示したものである。

これが法華経一貫の通義である。

 

然るに什訳は一を真とし二を非真とした。これ法華の本義に撞着するものであるから什訳を正訳として取ることが出来ない。

まして梵語の法華経には蔵訳と同じく

また

このように原書も西蔵訳も同一であって法華経も同様である。

 

されば什訳の実と非真との文は、原文にも蔵訳等にもなく、また同経の通義にも反して居る点から見て、誤訳と断ぜねばならぬ。

かかる誤訳によって立てた天台権実の判教は、固(もと)より根拠なく、随(したが)って成立しない説である。

 

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