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第15 - 仏陀は毫も小乗を説かれなかった事実

従来多くの学者等が大乗非仏説ということを唱えて、小乗のみを仏陀が親しく説いたものであると主張した。

 

併(しか)しこれは阿含部を公平に詳審に研究しない所から生ずる誤解であって、かりに詳審に研究した者があっても恐らくは宗見派執のために、知らず識らずにその偏見を正当と思ったことであろう。

本来仏陀は小乗を少しも説かれなかったのである。

かの法華経方便品に説いて居られる言に「仏は自ら大乗に住する。その所得の法の如きは、定慧の力が荘厳してある。仏自ら無上道大乗平等を証し、もし小乗を以て一人でも化するならば我は慳貪(けんどん)に堕つるであろう」と云われた。

 

これに対して或は云う者があろう。現に仏は四阿含と云う大部の小乗経典を説いたではないかと。

曰(いわ)くその通りだ。仏陀は四阿含という経は説かれたけれども、四阿含という小乗の経は説かれなかった。ただ後世布衍作出の大方等などの経典において四阿含を以て小乗として居るけれども、仏陀自らは阿含部の経典を小乗と呼ばれた事はないのである。

 

否(い)な仏陀自らは阿含部の経典において、これを以て大乗としておられる。即ち長阿含経第二には以下の如く出ている。

また増一阿含経第十に、その時須深夫人は偈を説いて曰(のたま)う

また長阿含経第五に、

最上法は大乗と同一義である。これ従来小乗と貶(へん)する経典を以て、最上法としまた大乗として居るのである。

 

また小乗部に属せられる仏般泥洹経(ぶつはつないおんぎょう/ブッダハ パリニルバーナ)上には、

この大道という語は、世人の小乗という道(外道)に対して、大道から選んで言ったものである。

 

小乗という語を阿含経の中で仏道の或部に名づけた例がない。

増一阿含経巻十八に用いてある小乗という語は、外道に対して用いている。その語は以下の如くである。

今この経は阿含部の経で、それを聞く人も亦(また)声聞の舍利仏と云われる人である。

普通声聞は小乗の者と云われ、この経も亦小乗に入れられて居る。さればこの経自らを大乗部のものとして、他の外道を小乗と呼んだとするのでなければ、小乗部中に小乗が小乗を解する能わずと云う事は自家撞着となるからである。故にこの小乗という語は確(たしか)に外道を指している事は明かである。

そうして阿含自らは大乗に居る事は、固(もと)より論のない事である。

 

また仏説寂志経には以下の如く出ている。

この仏道という語は声聞乗のことを言うのであって、声聞乗なる小乗もここには最尊の仏道である。

 

また中阿含経第二十九巻には、

と出て居る。

茲(ここ)に仏子と呼ばれて居るのは、声聞の弟子であって菩薩ではない。

そうしてここに無上の法論と云うのは、無上円頓の華厳経や法華経を指すのではない。

かの後世の自称大乗教徒が甚だ卑(いやし)めている所の小乗を指示して居られるのである。

 

以上挙げた典拠に依て自称大乗教徒が貶(けな)して小乗と称している阿含部の経典自体に、自ら大乗、無上法、大道、最尊の仏道、無上の法論などと大乗専有の如き最も高尚なる名目が、その経典の名として多く用いられて居る事を見るべきである。

されば小乗とせられて居る蔵経中に、後に説明する仏陀という語義の如く、大乗義を説明することあるも、毫(ごう)も怪しむべきでない。元来阿含も大乗であり一仏乗であるから、それが存在するのが当然である。

また大乗教徒は仏子と云えば、菩薩の別名かの如くに思って居る者が多いけれども、如来が声聞の弟子に対して、仏子と呼んで居られることも、またこれによって明(あきら)かである。

 

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