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第12 - 梵語上より見たる天台判教の当否

玆(ここ)に梵語上より論究せんとする項目は、訳経の当否を論ぜんとするのではない。

天台に判釈せられた諸経典が属する部門の名義について、究明せんとするのである。

 

天台は大方広部に属する経典、即ち華厳経や法華経を以て、円頓無上の経典として第一位に置き、大方等部に属する経典、即ち勝鬘経や如来蔵経や維摩経等を以て第三位に置いて、大乗中最下のものとしたのである。

かくの如く両者を劃然(かくぜん)区別して、全くその価値も質も異なるもののように取扱った。

 

然れども梵語即ちサンスクリット語においては大方広と云うも、大方等と云うも、同じ一語のマハー・ヴァイプールヤ Mahā vaipūrya と云うのである。或訳者はこの語を大方広と訳し、他の訳者は大方等と訳したのであった。

されば大方広部に属する経典も、大方等部に属する経典も、原語より見れば共に同じ一部に属する経典であって、何等その間に価値の等差を設くべき理由のないものである。

然るに天台はその同じ部類の経典に対して、大方広なる訳語の経典を以て、円教として最高位を付け、大方等の訳語の経典を以て、通教として大乗の最下位を付けたるが如きは、寧(むし)ろ梵語を知らざる滑稽なる妄分別と言わねばならぬ。

 

然るに従来吾人は天台の妄判に誤られて、同一真理同一価値の経典に対して妄(みだ)りに高下を論じ、一を最上極秘として尊敬信仰し、他を下卑浅薄として抑圧蔑視し以て我宗の見を増長して、同じ仏教徒にてありながら、仇敵啻(ただ)ならざる醜体を表したのである。

或は言う者があろう。かりに表面上原語が同一であっても、内容に高下の別あれば、それを区別するのが当然でないかと。

それは実にその通りである。実質において高下があれば吾人も固(もと)よりこれを認める。

 

併(しか)しながら吾人が勝鬘経の漢蔵両訳の比較研究中に詳示した如く、両経の内容は殆(ほと)んど全く同一である。

三乗即一乗は法華経の高説する所であって勝鬘経もまた同様に高説するのである。

法華経の観持妙法は勝鬘経の完持妙法である。

また女人成仏の記を得たる勝鬘夫人も在家女即ちウパーシカなれば、法華会上に成仏した竜女も在家女即ちウパーシカである。

かくの如き類似の比較を同研究に十種挙げてあるから詳細は同書に譲っておく。(世界文庫刊行会発行「漢蔵対訳勝鬘経」)

 

かくの如く内容も名目も同一であるから、これが高下を分つべき根拠が何もないのである。

 

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